第8話『副反応』
「まさか、二日で片がつくとは思いませんでしたね。博士」
背伸びをすると固まった身体がほぐれていくのが分かる。まだ若いつもりだが、寝不足は体にこたえる。
「原液さまさまね。しかも、今のところ副反応は見られないのが人道的よね」
「ですね。引き続き研究を続けて、人類を救いましょう」
「そうね。これからも期待してるわ。沙知さん」
私は満面の笑みを浮かべた。博士は尊敬できる人で、私の恩人。共犯者でもある。これからも私を必要としてくれる。感無量という言葉はいま使うべきだ。
私たちはよく研究の合間にコーヒーを飲む。
買う豆を選ぶのが博士で、淹れる係が私だ。さっきも、博士の買い置きから豆を選び、二人分を淹れてきたところだった。豆を挽き、ハンドドリップで丁寧に淹れた、とっておきの一杯だ。
「あら、今日はパナマ・ゲイシャなのね」
博士がカップに顔を近づける。
「分かりますか」
「ええ。この香りは分かるわ」
「ちょうど実験の終わりですし、贅沢してもいいかなと思いまして」
かなり高価な豆だと聞いていたので、普段は手を出さずにいた。けれど、実験がひと区切りついた今日なら、博士も喜んでくれると思った。
博士が一口飲む。
「……このロット、いいわね。ジャスミンの香りがきれいに出てる」
私もカップを口に運んだ。華やかな香りが鼻へ抜け、柑橘を思わせる酸味と、ほのかな甘さが舌に残る。
「なんだか、コーヒーっていうより、ジャスミン茶みたいな味ですね」
「ゲイシャはね。香りを飲むコーヒーなのよ」
「本当にいい香りです」
もう一度カップに鼻を近づける。博士が豆にこだわる理由が、少し分かった気がした。
「ゲイシャって、どういう意味なんですか」
「品種の名前よ。もともとはエチオピア由来なの。それが中米を経て、パナマに渡ったのよ」
「最初から、こんなに高かったんですか」
「いいえ。注目されたのは二〇〇四年。パナマの農園が、高地で育てたゲイシャをほかの豆と分けて出品したら、品評会で優勝したの。それまで埋もれていた香りのよさが、ようやく見いだされたわけね」
「じゃあ、ぴったりですね」
「なにが」
「私たちは人間の可能性を再発見しましたから」
私と博士は、にやりと笑った。
モニターの中で、高松が腹に手を当てていた。少し離れたところでは、牧野がうずくまっている。私はカップを片手に、画面の端に並ぶ数値を確かめた。
あとで、この香りと一緒に今日のことを思い出すかも知れない。そう思うとすこしだけ、飲み干すのが惜しかった。
「沙知さん。大丈夫? 顔が赤いわよ。少しはしゃぎすぎたかしら」
「ああ、そうかもしれませんね。睡眠不足でしたし」
カップを置き、顔を両手で叩いて気持ちを切り替える。この二日間で取得した実験データを保存して研究室に送った。
「この二人、どうしますか」
「そうね」
博士は考えるように腕を組んだ。
「頼む。せめて、この衝動だけでもなんとかしてくれ」
モニターに映る高松が苦しそうな表情を浮かべ叫んだ。実験はすでに完了しているから、彼らが何をしようと関係はないが、私たちがいる前で始められるのも面倒だった。
「ああ、はい。じゃあ、抑制剤を渡しておきますね」
マイクに向かって話しかけたあと、パネルを操作した。ボタンを押すと、壁が開いて、エピペン状の抑制剤が二本出てくる。
「これを使えば、一時的に第二性由来の衝動を抑えることができるはずです。根本的に元へ戻す薬ではありませんけど」
うずくまった彼らを眺めながら、最後の一口を飲み干した。
そしてマイクを切り、モニターの映像を消した。プライバシーは守られるべきだし、覗きをするような趣味はなかった。
「さて博士。別室で実験データの分析をしませんか」
「そうね。ここから先は自由恋愛……いえ、本人たちの判断に任せましょう」
椅子から立ち上がろうとした瞬間、身体から力が抜けた。
とっさに机に手をのばしたが、指先は縁をかすめただけだった。膝が床にぶつかり、そのまま身体が傾く。受け身も取れずに、倒れ込んでしまった。
「沙知さん?」
椅子を引く音がした。博士の足元が目の前にある。膝をついて、私の身体を揺すっている。「大丈夫です」と言おうとしたのだけれど、うまく声を出すことができなかった。
力が入らない。床の冷たさが心地いい。知恵熱だろうか。頑張りすぎたのか。心臓の音がやけに大きい。
私の意識はそこで途絶えてしまった。
*
目を覚ましたときには、白い部屋の中にいた。
私はベッドの上で横になり、腕には点滴の管が繋がっている。目の重さやだるさはいっさいない。むしろ気分はよくて、これならすぐに働けそうだった。
しばらく経っても誰もやってこない。時計の針が進む音を聞くか、点滴が落ちているのを眺めているくらいしかやることがない。こういった暇な時間があると、研究のことが気になって仕方がない。
待っているだけでは仕方がないので、ナースコールのボタンを押した。「あ、目覚めましたね。少々お待ちくださいね」と声が聞こえてきた。そして、なぜか医者ではなく博士がやってきた。
「目が覚めたのね」
「あ、はい。ご迷惑をおかけしました」
「いいのよ」
「えっと、データの分析は、どこまで進みましたか」
「それは、あとで話しましょう」
「私が寝ている間に、終わってしまったんですか」
少し残念だった。せっかくなのだから、博士と一緒に確認をしたかった。
「もう平気です。これが外れれば、研究室に戻れます」
点滴の繋がった腕を少し持ち上げた。博士が手を突き出して私を制止した。
「……仕事のことは、いいから」
「はい」
博士の様子がどこかおかしい。目を合わせてくれないし、何か躊躇っているようだ。
「博士、何かあったんですか。まさか、あのあとに事故があったりとか」
「そういうことじゃないの。分かった。正直に話すわ。落ち着いて聞いてね」
「はい」
博士と目が合った。やがて博士は観念したように口を開いた。
「あなた、ベータ化したの」
「はい?」
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