第10話『ベータ熱2』
隣の研究棟にいるスタッフから話を聞くことにした。
私と博士は、ラブロマンスエキスの開発から投薬、その直後の変化の確認までを担当している。一方、隣の棟は、変化した生物の長期的な観察を行う場所になっている。
私はスティーブとエドワードのその後を確認するという名目で、白石直人という男に面会を申し込んだ。博士の言いつけどおりに、ベータ化しているスタッフがいることは伏せてある。
白石直人は優秀だ。私と同じ二十代後半で、大学院を出てすぐに東邦ファーマの研究員となった。医師免許も持っているが、実務経験はないという。実力を認められ、わずか数年でこの秘密研究に携わることになったらしい。
それでも、博士号を飛び級で取得した私と比べれば、研究者としてはまだ数段劣る。
ついでに言うと面倒な人間なので会うのが億劫だった。
面会の時間になると、私はIDをかざして隣の棟に入り、白石の待つ会議室へ向かった。
白石はすでに会議室にいて、コーヒーを飲んでいた。私が入ると、わざわざ立ち上がって「お疲れ様です」と声をかけてくる。
「白石さん、お忙しいところ、お時間をいただきありがとうございます」
「いえいえ、お気になさらず。ぼくも海野さんにお聞きしたいことがあったので」
「白石さんが、ですか。では、私の用件が終わったあとでお願いします。二匹の経過は順調ですか」
「スティーブもエドワードも元気ですよ。いつもお渡ししている報告のとおりです」
私は両手を合わせて、「それはよかった」という顔を作る。博士以外の人間と会うときの私はタコなのだ。
「ただ、一部のスタッフが体調不良を起こしていて少々立て込んでいますので……」
「分かりました。今日お聞きしたいのは、報告にあったエドワードと通常の雌との交配実験についてです」
「なかなか面白い結果が出ていますよ」
「面白い結果とは?」
「エドワードと同じケージで飼育していた雌がβ化し、その後、Ωに分化したんです」
「実験の経過を詳しく教えてもらえますか」
「最初に二匹を同じケージへ入れたのですが、エドワードは雌にまったく興味を示しませんでした。そこで雌を発情させて、強制的に交尾させることにしたんです」
「その交尾で妊娠したのですか」
「いえ、最初はうまくいきませんでした。その後も同じケージで飼育を続けていたところ、二週間ほどで雌のベータ化が確認されました」
「それからオメガに?」
「はい。オメガへの分化が始まると、今度はエドワードのほうから雌に強くアプローチするようになりました。交尾も自然に成立し、現在は妊娠しています」
本来、アルファとオメガは互いにしか興味を示さないように設計している。エドワードが通常の雌に興味を示さなかったのは想定どおりだ。
「つまり、最初の肉体的な接触によって、ラブロマンスエキスの作用が雌にも感染したんです」
白石は自信ありげに言った。
「二匹は、どのくらい一緒のケージにいたのですか」
「三週間以上です。最初の交尾を試みたあとも、ずっと同じケージで飼育していました」
「β化が確認されたのは、その二週間後ですね」
「ええ。ですから、肉体的な接触が原因と考えるのが自然でしょう」
本当にそうだろうか。
最初の交尾は成立していない。それからβ化が確認されるまでの二週間、二匹は同じケージで生活していた。肉体的な接触が原因とは限らない。エドワードが発するフェロモンを浴び続けたことで、雌の身体が作り変えられた可能性もある。
白い部屋へ近づいていないスタッフがβ化したこととも辻褄が合う。おそらく、牧野と高松の世話をしていたスタッフだろう。
私の中で、仮説が少しずつ輪郭を帯びていく。
「海野さん、それとですね。妊娠しているスティーブなんですけど、そろそろ出産予定なんです」
「まだ一ヶ月ほどしか経っていませんが、もうですか」
「ええ。どうやら、胎児の成長速度がかなり速いようでして」
「それは、またも想定外ですね」
白石は首を傾げて私をじっくりと見た。
「なにかトラブルでもありましたか」
「あはは、別になにも。私の聞きたかったことは以上です。白石さんのお話を伺います」
正直、早く帰りたい。白石の話は碌でもないことだと思う。この前は、ラブロマンスエキスの効能に対して、医療倫理の観点から受け入れがたいと苦言を呈されたことがある。私たちがやっているのは裏家業だということを理解していないのだろうか。白石はコーヒーを飲み干すと口を開いた。
「海野さん。あなた、臨床試験を行いましたね」
「ええ、つい最近」
「被験者は、牧野さんと高松さんですね。検査のためにこちらへ回された際、私が二人から直接話を聞きました。実験への同意はなかったそうですが、どういうことですか」
「何か問題がありますか」
「大問題じゃないですか。あなたの倫理観はどうなっているんですか」
「被験体が人間か、動物かで線を引いているんですか」
「何を言っているんです?」
「白石さんだって、生物学上の雄を妊娠させるという、ある種の冒涜的な実験に手を染めているじゃないですか。しかも、その成果を嬉々として語っていた。私には、あなたのほうがずれているように見えます」
「動物実験と同意のない人体実験を同列に扱うな。守るべき一線があるという話をしているんです」
「まったく、話になりませんね。必要な手続きを経て、承認は下りています。話す相手を間違えていませんか」
面倒なやつの話に付き合っている時間はない。私は立ち上がり、一応の感謝を述べて会議室をあとにした。
人生で、つらい経験などしたことがないのだろう。廊下を歩きながら、ぼんやりとそう思った。
博士のいる研究室に戻り、白石と話した内容を共有する。私は我慢ができる人間なのだから、愚痴は吐かなかった。
「やはり、博士の仮説は当たっていると思われます」
「分化して第二性を獲得した生物のフェロモンは、ベータ化を誘発するということね」
「はい。白石たちは肉体的な接触が原因だと考えていましたが、状況を見るかぎり、間違いです」
「彼らの報告書を読んだわ。補記に『肉体的な接触のない個体がベータ化した。取り違えか』と記載されているわね。ここまで記録していながら、気づかないものなのね」
「そんなこと、言っていませんでしたよ」
「本当に気にしていないんでしょうね。好都合だわ」
博士はパソコンを操作し、報告資料から補記の部分だけを削除した。憶測で語るのは科学ではない。上司が部下の報告をレビューしただけだ。
「さて、思わぬ副作用ね。いえ、副産物と言ったほうがいいかしら」
「これを利用すれば、計画を一気に進展させられる可能性がありますね」
「いままでのボトルネックが一気に解消されるわね」
「散布する必要がなくなりますね」
「さあ、人類の救済よ。人類ベータ化計画の最終段階を始めましょう」
「九条様に会いに行く必要がありますね」
「御老公の相手は疲れるのよね」
「博士、ファイトです」
私たちは最終確認として、二匹のラットに原液を投与し、アルファとオメガへ分化させた。その後、それぞれをベータ化していないラットと同じケージで生活させた。
半日も経たないうちに、それぞれと同居させたラットが、どちらもベータ化していることが確認された。
フェロモン感染の確証を得た私たちは、パトロンである九条様のもとへ、計画の報告と新たな提案をしに向かった。
それにしても、原液は強力だ。




