第5話『鼻』
翌朝、最初に目を覚ましたのは牧野だった。
苦い顔をしながら肩や腰、身体のあちこちを触っている。隣に高松がいることに気づいても、昨日ほどの驚きはないように見えた。
立ち上がり、背伸びと屈伸を始める。その姿は懐かしい。
一緒に朝を迎えていたころも、彼がこうして身体を動かし始めると、不思議と目が覚めた。その朝を思い出したことに腹が立ち、思わず計測機器を殴った。
牧野と違い、高松順次はまだうなされていた。体温は三十九度近くある。
牧野はしばらく、その様子を眺めたあと、天井に向かって話しかける。
「おい、見てるんだろ」
「すまないが、飯とか水とかさ、そういうのないわけ。あとトイレ行きたいんだけど」
私は管理画面を操作した。
白い壁の一部が開き、食料と水の入ったボックスが飛び出す。反対側の壁には「UB」の文字が浮かび上がった。牧野がその前に立つと扉が開き、ユニットバスが現れる。
牧野は用を済ませると、食料と水を手に取った。
食料といってもカロリーバーなのだが、三日程度であれば問題はないだろう。この部屋はこだわりを詰め込み、それなりの費用をかけて作った、博士と私の自慢の一室だ。パトロンに文句は言われたが、美学を曲げることはできない。
静まり返った部屋の中では、小さな音がやけに響く。高松が身体をよじるとシーツが擦れ、やがてうめき声を上げながら目をこすった。
「おっさん、起きたのか」
「ああ、牧野さん。おはよう」
「ほら、水だ。飲めよ。すごい汗だ。大丈夫か」
「ああ、ありがとう。不思議とすっきりした気分なんだ」
高松は手渡されたペットボトルの蓋を開き、勢いよく水を飲んだ。唇からこぼれた一滴が、シーツに小さなシミを作る。
「ああ、すまない」
「気にすんなよ。熱あるみたいだし、ゆっくりしとけよ」
「ああ、ありがとう」
私は博士を見る。博士も、同じことを考えているようだった。昨日は胸ぐらを掴んでいた男が、今日は水を渡している。一晩経って落ち着いたのか、それとも、これもラブロマンスエキスの効果なのだろうか。人に使うのは初めてで判断が難しい。
「興味深いわ」
博士は小さく呟いた。
しばらくすると高松は再び横になり、すぐに寝息を立て始めた。
牧野はその様子を見守っていた。普通の光景であるはずなのに、私にはにわかには信じられなかった。
「なんだ、この匂いは」
牧野は小さく呟き、鼻をひくつかせながら匂いのもとを辿るようにゆっくりと動き出した。やがてベッドのそばまで近づき、そのままシーツへ顔を埋める。
ベッドの揺れに、高松が目を開けた。
「牧野くん、どうしたんだい。牧野くん!?」
高松の声に反応して、牧野は勢いよく顔を上げた。何が起こったのか信じられないような顔をしている。
「おっさん。なんでもねえよ。気にすんなよ」
高松の体調は、その後だいぶ落ち着いた。体温も微熱程度まで下がっている。だが、見た目は明らかに変わっていた。頬と、少し出ていた腹がすっきりしている。本人も違和感があるのか、食事を終えると身体を大きく伸ばした。骨がバキバキと音を立てる。
「さてと、牧野くん。少し話そう」
「ああ」
「昨日、あの女性は元恋人だと言っていたね」
「ああ」
「それで、どうして彼女についてきたんだい」
「昨日の夜、久しぶりに会ってさ。いい薬があるって聞いたんだ。その実験に付き合えって言うからついて行った。それで途中で、オッサンも拾った」
「薬に実験か。それは、認知改善薬という薬の実験かい?」
「なんだそりゃ。オレは下半身に効く薬って聞いてたぜ」
「はあ。なんだそれ」
「知るかよ。オッサンこそ、オレの元カノとはどういう関係だよ」
「面識はないんだ。彼女は私の元恋人の助手らしい」
「元?」
「研究所で臨床試験を行っていて、私の力が必要だという話を聞いてね。ついて行くことにしたんだ」
「すげえ怪しいな、それ」
「不自然なところはあった……でも、私には断ることができなかった。美子にまた会いたかったから」
牧野は呆れたような表情を浮かべた。
「で、なんでオレたちは監禁されてんだ」
「こういうときは、お互いの共通点を探すんだ。薬に実験、それから元恋人……牧野くんは何か思いつかないか」
「あとは、男とか」
「ふっ。そんなの見れば分かるじゃないか」
高松の鼻で笑うようなトーンに反応したのは、牧野だけではなかった。隣の席の空気が少し冷えた気がした。
「あーあ、こんなオッサンと一緒に閉じ込められてよ。ただでさえ苛ついてんのによ、こんな口聞かれたんじゃ腹立ってしょうがないぜ」
牧野は壁際まで歩き、乱暴に壁を蹴った。観察室まで小さく揺れる。
「もしかして、何かの実験か」
「なんか言ったか?」
「私たちは実験されているんだ。きっと何かしらの薬の実験だ」
「そんなもの飲まされてないだろ」
「あのときの紅茶か、そもそも寝ている間に何かされたのか」
高松は牧野を上から下まで、観察するようにじっくり見た。
「牧野くん。君、さっきから様子がおかしくないか」
「は?」
「さっき、なぜシーツに顔を埋めたんだい」
「だから何だよ」
「薬の作用が、もう始まっているんじゃないか」
「匂いくらい嗅ぐだろ。オッサンの言う共通点だったら、オレたちに熱があったことのほうが大事だろ」
「熱だと。君もあったのか」
「オッサンが起きる前にな。今は平気だ」
「もう何らかの変化は起こっていると考えたほうがいい」
さすがは博士の元彼だ。この状況を、ほとんど正確に理解しつつある。
「高松は鋭いですね」
「そこは認めるけど、賢い意味を勘違いしてる人だから」
「勘違いですか」
「世界を一つの視点からしか見られない、可哀想な人。何が起きているかは分かっても、なぜ私たちがこんなことをしたのかは、きっと最後まで分からないわ」
「そうですね。復讐と実益を兼ねた人類救済は、私たちにしかできませんから」
「そうね。私たちは救世主様ですからね」
私と博士は顔を見合わせて笑った。博士がマイクのスイッチを入れた。
「おはようございます。ご機嫌いかがでしょうか」
二人が顔を上げる。
「今日はお二人にお願いがあります。なぜ、いま監禁されているのか考えてください。それが分かれば、解放して差し上げます」
「そんなの、分かるわけねえだろ」
「お二人で話し合ってみれば、答えは見つかるはずですよ」
博士がマイクを切ると、私は少し楽しげな声で言った。
「意地が悪いですね、博士」
「せっかく答えのすぐ近くまで来たんだもの。自分で辿り着いてもらいましょう」
牧野と高松は再び顔を見合わせた。高松は考え込み、牧野は相変わらず鼻をひくつかせている。
実験開始から、まだ二日も経っていない。それなのに、二人の身体には、すでに昨日までにはなかった変化が現れていた。




