第34話『転生1』
私の名前は高松順次。そろそろ37歳になる。
いまは各地を転々としながら、日雇いの仕事でなんとか食いつないでいる。今日の宿屋は町外れにある廃屋で電気もガスも通っていないが、雨露をしのげるだけでもありがたい。
いままで、肉体労働というものはしたことがなかったのだが、常に体を動かしていると、余計なことを考える時間がなくなる。その分ストレスは減るのだ。ただ、どうにも考えてしまうのは、この貧しい生活をしている時だ。以前は、街を一望できるマンションに住んでいたにも関わらず、虫やネズミと暮らしている。一つ前に住んでいた物件は、真っ白で狭いことと不自由さを除けば、食事と温かい寝床はあった。
初めての体験に戸惑っているというよりは、ついあの時の暮らしを思い出して、黄昏れてしまうのだ。
この家の元の家主はそれなりの生活をしていたのだと思われる。リビングは広く、北欧風の内装が施されており、カウチやテーブル、大きなテレビがあった。太陽の光を取り込むために作られたであろう、部屋を囲むように窓ガラスが並んでいる。そのいくつかは割れていて、葦が潜り込んできている。そのためか、いま座っているカウチは、力をかけるたびに砂埃が舞ってしまう。
私と同じように住民は連れ去られてしまったのか、それとも逃げ出してしまったのかというのは分かりようもないことなのだが、元通りに戻ることはないのだろう。
横になりカウチに体を預ける。多少の汚れはもう気にならなくなった。寝るまでの僅かな時間にやっていることといえば、九条市について調べることだった。
私や牧野について調べてみてもなにも出てこないし、九条市はただの平和な街であることがよくわかった。ただ、何かあるかも知れないと日課のように検索するのが癖になっていた。
「高松さん、また調べているんですか」
遠くからたしなめるような声が聞こえてきた。床板の軋みが近づいてきたかと思うと、テーブルの上に膨らんだビニール袋が置かれた。私は携帯画面を消して、裏返して無造作に放置した。
「どこに行っていた」
「いつも通りです。夕食を買いに行っていました」
「そうか、すまないな」
「気にしないでください」
白石はビニール袋から弁当を取り出して私に渡してきた。彼の手首にあるひどい火傷の跡のような傷がちらりと見えた。自分の右手首をひねると、そこにも同じ傷跡があった。
わずかに自責の念に駆られるのは、白石を見る目が変わってしまったからだ。私に関わっていなければ、彼を巻き込むことはなかったと思う一方で、どちらにせよひどい目にあっていたことは間違いなかったと思う。結果的には私は彼を助けたという自負はあるが、必要以上の傷を与えてしまったことには違いなかった。
「僕の生体認証が使えさえすれば、高松さんにこんな苦労をさせることなかったんですけどね」
「私たちは奴らに目をつけられているからな。何回か使っただけで、すぐに足がついた。気にしても仕方ないことだ。むしろ、外に出てからは君のツテが役に立った」
「手首のインプラントチップを使えなくして、生活は不便になりましたけど、生きていけないわけではありませんから」
「そうだな。ホームレスのような生活かも知れないが、寝床も食べ物も仕事もある。それに、娯楽もね」
私は携帯を指さして言った。白石の表情は暗がりでうまく捉え切れはしないのだが、おそらく微妙な顔つきになっているのだろう。
「やっぱり、気になりますか」
「なにがだ」
「九条市のことですよ」
「それは気にしないほうがおかしいだろ。私たちは追われている身だぞ。情報は積極的に集めるべきだ」
「分かりますよそれは。でも、精神的によくはないですよ」
「なにもしないほうがストレスだ」
弁当の蓋を開けながら反論する。袋から取り出した割り箸に力を込めると、左右で不均等な形になって割れた。箸の先端を一瞥してから、弁当のご飯を食べると少しだけ温かかった。
食料を買い出しに行くときは、この住処を特定されないように離れた場所で買い物をするようにしているため、ちょうどいい温度の食事を味わうことはめったになかった。
「今日のは温かいな。こういう、ちょっとしたことが今は新鮮に感じてしまう」
「本当はもっとちゃんとしたものが食べられたらいいんですけど」
「そんなことはない。これで十分だ」
「でも、高松さんのしていた以前の暮らしと比べると、見劣りしませんか」
「言っただろ、新鮮だって。知らないことを経験するのは案外悪くはない」
「確かにそうですね。まさか、こんな生活をするなんて思ってもいませんでした。人間は案外、丈夫にできているんだって思います」
白石の声には元気がないように思えた。
「これからどうなるんだろう」
小さく白石が呟いた。黙々と手だけを動かしてご飯を食べている。自分が何を言ったのか分かっていないようだった。
私たちは弁当を食べ終わるとレジ袋に弁当の空き容器を詰めて口を結んだ。私はリビングをあとにして、寝室に戻っていった。
寝室に入る前に、身体や服についている砂埃を払う。入ってすぐに古着屋で買った薄い生地のパジャマに着替えた。十分ほど換気して、カーテンを閉め、ドアに鍵をかける。この部屋だけは重点的に清掃して清潔さを保っている。これが現状における正気を保つ方法だと思っていたからだ。
ベッドに腰を下ろすと携帯で検索を始める。白石は嫌がるだろうなと思いつつも、あの実験について調べるのだった。短文を投稿するサイトや有名な動画投稿サイトから海外の怪しげなサイトまで目を通す。
「男性の妊娠」と検索して出てくるのは、創作や妊活に関する情報が主だった。他にはオカルト的な伝承に行き着いてしまう。私自身が荒唐無稽な存在なのであるせいか、どれも他人事のようには思えなかった。むしろ、子どもがいつか経験するであろう未来を想像するようなリアリティがある。
無意識にお腹に手を当てていたことに気がついた。私もそれが可能だということは、たぶん本能的に分かっている。
私のいまの目標は、非道な人体実験を告発することではない。あの女どもにどうやって復讐するかだった。告発することは復讐の一端となり得るし、私と白石が安全に暮らすためには必要なことだと思っている。こんな、行き当たりばったりの生活は長くは続かないだろう。
どうすれば、美子の人生を私と同じように破壊できるのか。
美子は私が彼女の人生を奪ったと言い、私から人生を奪った。私にはその自覚がないものだから、なんともひどい話だ。
それで、身体を不可逆に変化させられて、認知改善というものが行われたらしい。前者は体験しているが、後者はいまいち実感がなかったが、心当たりは少しあった。牧野の匂いだ。心地よい香りだったのをよく覚えている。
身体が熱くなってきたのがわかる。少しでも意識してしまえば、頭や身体が未知の感覚に押し流されてしまい、おかしくなってしまうのだ。
学生の頃に絵画を習っていた。完成が近づくと、気持ちが高ぶる一方で、筆を持つ手は慎重になった。あと一筆で完成する。その一筆を入れようと、息を止めている時の感覚に似ていた。なにかの拍子に、自分も本当に変わってしまう。そんな気がしていた。
美子にも、海野にも私と同じ変化を与えてやらなければならない。そう思うことでしかあの匂いを振り切ることはできなかった。
夜が深くなるにつれ、腹の底にある熱が高まっていく。やがて、脳みそが焼き切れたように眠りについた。




