第33話『猟犬2』
牧野が私の研究室に連れてこられたのは、職員に命令を下してからしばらくのあとだった。
真っ白な病衣を身につけている。足には逃走防止用の枷が着用されている。GPSと連動していて、常にどこにいるかを監視できる。
犯罪者のような扱いをしているにもかかわらず、牧野は至って冷静だった。
私は淹れたばかりのコーヒーを口に運んだ。まだ湯気が立っている。その時、牧野の鼻が僅かに動いた気がした。
「ひさしぶりね」
「ああ」
牧野の視線が一瞬だけ、部屋の奥に流れた。
調子の良い返事が返ってくるものだと思っていたから、少し拍子抜けだ。
見た目はあまり変わっていない。ガッチリとした体型がこの監禁生活のなかでも維持されていることが異常だ。ただ、それよりも、あの牧野とは似ても似つかない反応のほうが気になっている。元彼というのはこうも淡泊になるものか。あるいは。
「元気そうね」
「そうだな」
こいつ、こんなに静かな男だっただろうか。
付き合っていた頃はもっと粗暴で、自分にちょっかいをかけるやつとはしょっちゅう喧嘩をしていたはずだ。それなのに、声を荒げることも、軽口を叩いてくるわけでもない。
「今の生活は楽しめているかしら」
「楽しくはない。まあ、悪くはない」
私が職員に目配せをすると、牧野を椅子に座らせた。逃げられないように、椅子に身体を固定した。牧野はため息をついただけだった。
「そんなに、しおらしくなったのはこの生活のせい」
「そうだろうな」
「ふーん、性欲だけで動いていたあなたがこんな風になるなんて」
椅子に座って彼の顔を覗き込んだ。
「あなたにとってここはお寺かなにかだったのかな」
「考える時間だけはあったからな」
呆れたような顔をしていた。私の嫌味に対して表情も身体も以前のような反応をすることはない。本当に悟りを開いたような、別人だった。
「ねえ、伝言聞いたわ。『悪かった』ってなに」
「そう思っただけだ。他に理由はない」
「どうして、そう思ったの」
「言ったろ、考える時間はあったって」
「まあ、いいわ。今日はそんな話をするために呼んだわけではないのだから」
職員に向かって手を振ると、彼らは退室していった。牧野と二人だけになったが、問題はない。拘束されているし、暴力的でもなくなっている。ただ、妙な違和感だけが引っかかる。
「碌でもないことだろ」
「ええ、そうね。あなたと一緒にいた高松を覚えているかしら」
「ああ、覚えてる」
「あの男がこの研究所から脱走したわ」
牧野の眉がピクリと動いたのを見逃さなかった。
「気になる?」
「……いや。ただ、すごいなとは思う」
「ふーん。そうなんだ」
「それがなにか関係あるのかよ」
「ええ。それがあるの」
自分の鼻を指で叩いた。
「あなたの鼻を貸してもらうわ」
「鼻を?」
「ええ。あなたなら高松を探せると思っているのだけど」
「そんな理由ないだろ」
「さっきから、気がついているでしょ。この部屋にあるものに」
「何の話だ」
「あなたが欲しいもの。どこにあるか、当ててみてくれるかしら」
牧野は今日初めて苛立ったように舌打ちをした。そして、目を瞑った。集中しているのだろう。黙ったまま牧野の様子を観察する。牧野の鼻の穴がヒクついて、鼻息が漏れる。私には分からない何かを嗅ぎ取っているのだと分かった。
「部屋の奥……右側の棚。たぶん、下の方の引き出しに何かあるな」
立ち上がって牧野が言った場所に向かった。奇しくも彼が部屋に入ってきた時に視線を向けた場所と同じだった。下にある引き出しから、血のついた包帯を取り出した。これは高松を治療したときに廃棄されずに残っていたものだった。
口元が緩みそうになるのを堪えているように見えた。
「ああ、それだ」
「嗅覚が異常に発達しているわね。もう、人間の域を超えているみたいね」
「なんだよ、それ。異常に匂いが強いぞ。なんともないのかよ」
「私にはなんとも。ただ、あなたにはあるみたいね」
分かりやすく鼻を鳴らしている。彼はそういう生物になってしまったのだと改めて感じた。
「高松の血のついた包帯よ」
「っ……そうかよ」
「言ったでしょ、あなたの鼻が必要だって。意味分かるよね」
なんともないふりをしているんだろうけど、頬が染まっている。以前は私に向けていた表情が他人に向いているというのが、あまりいい心地ではない。
「あなた、犬になるのよ」
「は?」
「高松たちを捕らえるための、猟犬になってもらうわ」
「舐めてるのか」
流石にここまで言えば、牧野らしい反応を引き出すことができた。内心でほくそ笑む。
「いいえ、事実じゃない。あなたの鼻は優れていて、高松に強く反応を示しているじゃない。なに、人間探知機って言ったほうがよかった?」
「好きにしろ。……なあ、高松を見つけたらどうするんだよ」
「連れ戻すわ」
さっきまで感情的だったのに、すぐに冷静になってしまった。それに、高松を探すということに対しても否定的ではない。黙ってしまって、何を考えているの。生物的に彼はアルファなのだから、オメガである高松を求めるのは当然なのだ。なにも変ではない。
「ねえ、助けたいの?」
「いや、そういうわけじゃない」
「じゃあ、どうして答えないの?」
「悪かった」の言葉の意味も未だに分からない。何かが変わったのは分かる。肉体だけじゃない。精神面でも大きな変化があった。いま、何かを考えているのもきっとそうだからだ。昔のままなら「知るかよ」とか「やらねーよ、めんどくさい」と言っておしまいだったはずだ。
「条件がある」
「そんなことを言える立場じゃないと思うけど、聞いてあげる」
「高松を見つけたら、アイツと話したい。その時間をくれ」
「なにを話すの」
「世界最悪の被害者同士だ、話したいことはいくらでもあるだろ」
「なんなのよ、それ」
「お前なら分かると思うんだけどな」
言葉に詰まった。でも、なにも言えないのは負けた気がした。
「何のことか分かんないわ」
本当だ。牧野の気持ちが分からない。ただ、いまやるべきことは仕事だ。高松を探し出して失態を埋めて、オメガに関する研究記録を手に入れることだ。久しぶりに会って、感傷的になりすぎた。
「まあ、いいわ。仕事の話をしましょうか」
コーヒーは少しぬるくなっていた。後味の酸味が強く感じられた。一呼吸置いてから、机に置いていたファイルを開いた。
「高松たちが逃げ出したのは二日前。逃げ出してすぐに、九条市内で白石が現金を引き出しているわ」
「……そうか、白石も」
「すぐに、冨永さんの指揮で現場に捜索部隊を派遣したのだけど、現場にはいなかった。次に反応があったのは、九条市から東に百キロほど離れた三重県内。そこで白石の生体認証がもう一度使われている」
「そこから先はどうするんだ」
「あなたを外に出すの」
「オレ一人で、探せって?」
「いいえ、私も一緒よ。あなたを監視する役が必要だから」
「二日も経っているんだ、匂いなんて消えてるだろ」
「高松が生きている限り、近くにいればあなたの鼻はその匂いを嗅ぎ取ることができる。どこまで追えるかは分からない。でも、高松の匂いを識別できることは確認できた。試す価値はあるわ」
「そうかよ」
「何か質問は?」
牧野は黙って何かを思案し始める。
「言っておくけど、逃げられると思わないでね」
白衣のポケットに忍ばせておいたリモコンのスイッチを押す。ビクリと反応した牧野の身体が大きくねじれる。痛みに耐えるように食いしばっている。足につけた枷は、私がリモコンを操作することで電流を発生させることができる。
「あと、この施設を出て、私から三百メートルほど離れると同じように電流が流れるから」
「……先に言えよ」
「あなたには、この方がわかりやすいと思ってた」
これは首輪だ。それを分かっているのだろう。自分の足についた枷を眺める牧野は苦々しく呟いた。
「ほんとに、犬だな」
「明日の朝には出るから、準備だけはしておいて」
牧野は小さく頷いた。
その直後、机の上に置いた包帯へ視線が向く。鼻も僅かに動いていた。
優秀な猟犬になりそうだ。それは喜ばしいことなのに、どうにも気分が悪い。
冷めたコーヒーを飲むと、さっきより酸味が強く感じられた。




