第32話『猟犬1』
私が目を覚ました時に真っ先に会いに来てくれたのは博士だった。
病室で顔を合わせるのは、これで三度目だった。
相変わらず、四十歳を超えているとは思えないほど肌が綺麗だ。それに対して私の顔は無惨なほどに腫れ上がっていて、とっさに顔を伏せた。
「沙知さん、目が覚めたのね」
「はい、少し前にですけど」
「体調はどうかしら」
「身体中が痛みますし、少しぼうっとしています」
「無理もないわね。まさか、順次さんがあそこまでやるなんて思わなかったわ」
博士の喋り方は妙に楽しげだった。どうしてそんな風に笑っていられるのかが全く分からない。
重大な事件が起こってしまったのは間違いない。それなのに、どうして。
「……博士。いま、研究所はどうなっているんですか」
「そうね。大騒ぎよ。けが人はいるけど死者はいないわ。ただ、セキュリティチームが出しゃばってきていて、何をするにもひと手間増えて面倒になったわ。権限の見直しも行う予定だそうよ」
権限の見直しという言葉に心臓が跳ねる。高松たちが脱走してしまったのは間違いなく私のせいだからだ。
博士がそんなことを分かっていないはずはない。まだ私は博士にとって必要な存在であるのだろうか。
「その、すみませんでした。私のせいでこんな事故が起こってしまって」
「いいじゃない。起こったことを気にしてもしょうがないわ。監視カメラの映像を確認したけど、あなたは脅されたのよね。だったら、しかたないわよ」
「……そうですよね」
「あなたを最初に見つけたのは冨永だったの。だからか分からないけど、随分と疑っているわ」
「そうだったんですね」
「冨永に言われたのだけど、沙知さん、あなたが倒れた時に握っていたらしい、記録デバイスって何かしら」
「それは、その」
口から出そうになるのは簡単にバレてしまいそうな言い訳ばかりだった。でも本当のことを言ってしまえば、博士が私を見捨ててしまうような気がして言えるはずがない。
博士は分かっていて、私を試しているのかもしれない。そうであれば、嘘をついてしまっては心証がさらに悪くなるに違いない。でも最適な答えを見つけられない。
「えっと、あれは、白石に頼んでいた研究データが入ったデバイスです。あの時に救護室に呼び出されて、そこで刃物で脅されてしまって」
「白石にね」
「そ、そうなんです。ちょっと、一人では手が回らなくなって、ちょうどタイミングが合ったので、実験の手伝いをお願いしていました」
博士が私の目の奥を覗くように見てくる。
きっとバレている。博士は何かを測るように私を見ている。嘘をついたことか。博士への忠誠心か。それとも、私の裏切りの深さか。
手が震えてしまう。私の身体には、オメガに変わる可能性がある。博士がそれを知ったら、私に裏切られたと思うのではないか。
高松に結婚を先延ばしにされた時のように。そんなふうに考える根拠はないのに、想像ばかりが膨らんでいく。
「そうなのね、私も沙知さんに任せきりだったから。申し訳ないことをしたわね」
「そんなことはないですよ。全部、私のせいですから」
「沙知さん。そんな言い方をしては駄目と言ったのを忘れたのかしら」
「ごめんなさい。そうでしたね」
『全部、私のせいですから』という言葉は私の口癖だった。何かに失敗した時に原因があるのは自分だと思っている。浮気をされるのも、妊娠できない身体になったのもだ。
博士に出会って、私の事情を説明したときにも同じ言葉を使った。そうしたら、博士は『それは違うわ』ときっぱりと言ったのだ。
「『悪いことは全て、男が引き起こす。女が責任を取るのは間違っている』でしたよね」
「そうよ。今回もあなたは利用されてしまっただけ。ただ、冨永は違う考えを持っているみたいだけど」
「冨永さんは何と言っているんですか」
「今回の件で、沙知さんは責任を取る必要があるとだけ」
「つまり、研究から外されるってことですか」
「あなたは、冨永の下について高松たちの捜索にあたってほしいと言われているわ」
「それは確定事項ですか」
「いいえ、沙知さんの意思を尊重するそうよ。もう少し体調がよくなったら、冨永と話してちょうだい」
私の意思を尊重するということは、一体どういうことなのだろうか。
「博士はそれでいいんですか」
「沙知さんには私たちの研究を一緒にしてほしいと思っているけど、今回はちょっと大事だからなかなかね。御老公にも随分と文句を言われたわ」
「あ、すみません」
「いいのよ。私にとっては大したことじゃないから」
「もし、博士一人で研究を進めるってなったら、大変ではないですか」
「実験もデータを改ざんして適当に誤魔化しておくわ。あと二週間ほどで、最初に感染した人間はベータ化すると思うから。放っておいても分化が始まっていく。そこまで進めば、あとは経過を追うだけよ。私一人でも十分でしょう」
「そうですか。わかりました、冨永さんと話してみますね」
博士と一緒にいられない時間がどんどん増えていくのは不安だ。
それよりも、冨永さんは一体どうして、私に高松の捜索をしてほしいなんて言うのだろう。
ただの研究者である私が、何の役に立てるというのだろうか。
*
身体がある程度動けるまで一日ほど必要だった。
高松たちが逃げ出してからまだ二日しか経っていないらしい。
まだ目が覚めないでいたほうが気が楽だった。冨永さんは記録デバイスのデータを見ているはずだ。だから、細かいことは分からなくても「妊娠」に関することを調べていたのは分かると思う。
高松にも冨永さんにも私の隠し事がバレてしまった。全部、男たちに弱みを握られてしまった。悪いのは全部男たちなのだ。こんな目に遭うのもそうなのだ。
冨永は私たちの研究室の中で待っていた。いつもの几帳面に整えられたスーツ姿で、勝手に私のカップを使ってコーヒーを飲んでいる。
「あの、それ、私のカップなんですけど」
「それは失礼しました」
そう言って、またカップを口につける。
「いい豆が沢山あって羨ましいです。私なんかは薄い味しかない缶コーヒーをいつも飲んでいるのに」
「お話があると伺ったのですが、一体何でしょうか」
「小泉博士からお話は」
「少しだけ聞いています。高松たちの捜索をしろということですよね。いったい、どうして私がなんですか」
冨永が手に持っていたカップを机の上に音も立てずに置いた。ジャケットの内側から手帳を取り出して、ページをパラパラとめくる。
「海野博士。私は今回の事件が起こってしまったことを非常に残念に思っています」
「私もまさか、あんな目に遭うなんて思いもしませんでした」
「まあ、あなたも分かっていると思いますが、責任を取っていただく必要があります」
「責任ですか。この研究施設の監督者はあなたのはずではないですか。それなら、最終的な責任はあなたにあるはずです」
「もちろん。私にも責任はあります。でも、あなたにも責任があるということです。私欲に駆られて二人も逃がしてしまうんですから」
「何を言ってるんですか」
「これは、何ですか」
冨永はポケットから記録デバイスを取り出し、私の前に掲げてみせた。
「中身は見たんですか」
「もちろん、面白い実験データが入っていましたね。これ、若返りの研究ではありませんよね」
「は、博士には。小泉博士には、話したんですか」
「ふふふ、やっぱりそうですよね。そういう、個人的な感情は好ましい」
いつもの丁寧な振る舞いとは違って、感情的に笑う姿に身構える。この男は私が何を求めているのか分かっていると確信した。
「小泉博士には話していません。安心してください」
「冨永さん、何が言いたいんですか。責任と言うなら、また私のことを殴ればいいじゃないですか」
「私にも非があるのにそんなことできませんよ。海野博士にはお手伝いをしてほしいんです」
「捜索ですよね。さっきも言いましたけど、力になれるとは思いません」
「力になってもらえるとは思っていません。あくまで個人的な趣味の一環です」
「趣味に付き合えと」
「断っていただいても構いませんが、それでしたら別の方法で責任を取ってください。たとえば、腹裂きなんていかがですか」
笑えない。
この男の内側にあるのは、腐ったような嗜虐心だ。暴力はそれを満たすための一部で、私のことを貶めて楽しむつもりなのだろう。
冨永さんが手に持っている記録デバイスをすぐに奪い取れればどんなにいいことか。海の中で漂うマンボウが抵抗することもなく、捕食者に身体をかじられるような光景が目に浮かぶ。
「お手伝いいただいて、高松たちを捕まえられたなら、この記録デバイスはお返ししますよ」
「デバイスを渡す……そうですか」
冨永さんのお願いを受けるということは、彼の下について彼の仕事をするということだ。博士との仕事は高松たちを捕まえない限りはできなくなってしまう。それはできれば避けたい。
しかし、私には交渉する余地なんてなく、論理的に考えれば私が無条件で従うしかない。それにもかかわらず、私の望むものを報酬として与えようとしている。
「……お受けします。高松たちを探せばいいんですよね」
「もちろんです。ぜひ、お願いいたします」
無機質な表情のくせに、声だけはやけに嬉しそうだった。何かを探すように手帳をパラパラとめくり、どこかのページで指を止めた。
「そうそう、記録デバイスに入っていた研究データなんですけどね。ひとつ、面白いことが書いてありまして。何かというと、分化した個体は嗅覚が強くなるようなのです」
「それが、どうかしたんですか」
「犬ほどでなくても、人間も同じことができるのではないかと思いましてね」
「ドラマみたいに高松のいた部屋の匂いを嗅いで探せと言うことですか」
「違いますよ。あなたに頼みたいのはそういう仕事ではない。それは別の人にお任せしようと思っています」
「別の……人?」
嫌な予感がした。私は高松の匂いに強く反応する人物を一人だけ知っている。確かに、アイツならそれが可能だった。
「そう、牧野さんです。彼を猟犬として街に放つんです。あなたはその飼い主といったところでしょうか」
無表情を貫いていた冨永さんの顔が、腐ったぶどうのようになって、笑い声を上げている。気持ちが悪いけど否定はできなかった。少し前に私は同じように笑っていたのだと思うから。
「なるほど、牧野なら。確かにできるかもしれませんね」
「海野博士が言うなら、できるんでしょうね」
「ただ、ある程度の絞り込みは必要です。それは、できるのですか」
「ええ、彼らが最後に生体認証を使った場所は把握できています。まだ、遠くには行けていないはずです。まずは、そのあたりから探してみてください」
「わかりました」
冨永さんは趣味が悪い。私の嫌いな男の姿を体現している。身勝手で己の欲望を満たすためなら平気で人を利用する。最後に傷つくのはいつも私だ。
わざとらしく、靴で床を叩きながら私に向かって歩いてきている。無意識に一歩分下がってしまったし、両肩を抱いていた。
「では、海野さん。今後ともよろしくお願いします」
そう言って、手を差し出してきた。とっさに、それを払いのけてしまった。
冨永さんは楽しそうに笑って、踵を返して部屋の出口に向かった。
「ああ、そうそう——私の管理下であれば、職場恋愛は肯定派なんで」
そう言い残して、扉をくぐっていった。
奥歯を噛みしめる。拳を握る。内側に溜まった感情が煮えたぎっていく。ついに沸騰したと思った瞬間、大きな音が鳴った。
壁には私の靴跡がくっきりと残っていた。




