第30話『逃亡2』
5分ほど休んだ後、私たちは歩き始めた。
ぬかるみは足を踏み入れるだけで体力を奪う。泥水を靴下が吸い上げ、重さを増していく。
慎重に身をかがめ、音を立てないように歩き続ける。
森の出口は見つからない。逃げてきた方角も見失っていた。
同じ景色が繰り返される中で、開けた場所にたどり着いた。目の前には青空が広がっている。
これ以上は先に進めないと足が止まった。私たちはせり出した崖の上に立っていた。
見下ろした先には小川が流れている。
「川を下れば、きっと人がいるはずだ」
崖は小川に沿って続いていた。下流の方へ目をやると、少し先で低くなり、川辺まで斜面が続いている。あそこなら下りられそうだ。
私たちは崖沿いに歩みを進めた。
斜面に差しかかっても、相変わらず足下は悪かった。木の幹に手をつき、バランスを取りながら下っていく。
水音が近づき、やがて川辺に降り立った。
スリッパのまま足を川に入れ、泥を洗い流す。そして、顔や手を洗った。冷えた水の感触が心地よい。
「このまま進めば、なんとかなるかもしれませんね」
「そうだな」
空元気だ。白石の顔からも疲労がうかがえる。
足の裏が痛む。研究所で監禁されていたため、体力はかなり落ちている。ハーフマラソンくらいは走れたのに、今ではこのざまだ。
休憩してしまえばもう動けないような気がして、再び歩き始めた。
遭難したら川沿いは歩くなと聞いたことがある。
だが、ほかに当てもない。
歩くしかなかった。
「高松さん、あれ」
白石が指さした先には川の切れ目があった。水平に流れが途切れていた。
「滝か、くそ」
小石を蹴り上げる。川に吸い込まれるように水底へ消えていった。
「違います、滝の向こうです。橋みたいなものがあります」
目を凝らしてみると、吊り橋のようなものが見えた。
「ほんとうだ」
自然と笑い声があふれ出た。白石と子供のように喜び合った。
来た道を引き返し、傾斜の緩やかな岩肌を登った。川辺から離れ、滝を迂回するように進んでいく。
体感で1時間ほど歩くと、ついに吊り橋までたどり着いた。
ワイヤーで吊られた細い橋に、木の板が並んでいる。板の隙間から川が見えた。心許ない。
いざ踏み込んでみると、私の体重をしっかりと支えてくれる。文明を感じた。
「揺らすなよ」
「わかってますよ」
両手で左右の手すり代わりのワイヤーをつかんで慎重に進む。
渡りきった先には、人の足によって踏みならされた山道が続いていた。
山道を登ると舗装された道路に出た。近くにある標識で、三重のどこかにいることがわかった。
「これから、どうする」
「どうすると言われても。この格好をなんとかしたい気持ちが強いですね」
白石はスーツ姿なのだが泥だらけだ。対して私はスウェットにスリッパでみすぼらしい。浮浪者と変わらない。格好なんて今更だろうに。
「金はあるのか」
「……財布をポケットに入れていたのでいくらかは。ただ、濡れています。あと、下ろした金は封筒に入ったまま車の中に……」
「いくらある」
「2万3千円です」
「ささやかなお祝いになりそうだな。暗くなる前に、どこか休めるところまで行ければいいんだが」
「とりあえず、歩きませんか……どっちですかね」
白石は道路の左右を見ながら言った。
私は道の脇に落ちていた小枝を拾った。それを道路に投げる。小枝は地面で一度だけトンと跳ねて、左右どちらでもない向きに倒れた。
「それで、どっちにする?」
二人で顔をしかめた。
なんとなくだが、右に歩けばいい気がした。
行き先は知らないが、どこかには着くのだろう。
しばらく歩くと、街灯が見えてきた。まだ明かりはついていない。近くに人が住んでいるのかもしれない。
進むにつれて街灯が並ぶ間隔は短くなってきた。4つ目の先には建物が見えた。色落ちした赤いテント屋根。その下には自販機がいくつか並んでいる。
大きな看板があり、「辻村商店」と書かれていた。
私たちは小走りで駆け寄り、すぐに自販機で水を買った。二人分ほしかったが、小銭は200円しかなかったし、お札は水浸しだ。
白石は蓋を開けると勢いよく飲んでいく。ちょうど半分くらい飲み終わると、ペットボトルを渡してきた。
「ありがとう」
渇いた喉を潤していく。外見は水浸しなのに変な話ではある。
「ごめんください」
商店の引き戸を開けて、白石が声をかける。
「はーい」と返事があり、奥にかかったのれんをめくって老婆が顔を出した。私たちの姿を見ると驚いたように目を見開いた。身体の半分はのれんに隠れたままだ。
「あの、どうされましたか」
老婆がこちらの様子をうかがうように聞いてきた。
「すみません、電話をお借りすることはできますか」
「電話……ああ、うちでは公衆電話、もうやめちゃってね」
「そうなんですね……えっと僕たちその、車が事故で使えなくなって、そのときに山から転落したといいますか。持ち物もそのときに落としてしまって、それで」
「あら、それは災難ね。近くに電話ボックスがあるの。店を出て右手に進んでいったらね」
「ありがとうございます……あとこれで、買い物できますか」
白石が財布から濡れた1万円札を取り出した。
老婆の顔が引きつっていた。気持ちはわかるし、軽くホラーだ。
菓子パンやスナック菓子、飲み物を手に取り、レジへ持っていくと会計をしてくれた。
レジ袋を手に商店を後にし、教えてもらった公衆電話がある場所へと向かった。
そこは無人駅で、待合室には誰もいない。建物のそばに電話ボックスが建っている。
「誰に助けを呼ぶつもりなんだ」
先ほどから抱えていた疑問を白石に問いかける。
「例の闇医者です。迎えに来てもらいましょう。財布に……困ったときの連絡先として名刺を入れているんで」
白石は名刺を取り出して、私に見えるように差し出した。インクがにじんでいて読みにくい。
「ちゅうせ……こ、ん、にじんで読めん」
「中世古黎司です。珍しい名前ですよね」
「信用できるのか」
「そう言われると自信なくすんですが、たぶん……大丈夫だと。恩師も言ってましたから、『何かあったら中世古』だって」
「……恩師ではだめなのか」
「北海道にいるんで難しいかなと」
私にとって中世古黎司という人物は得体の知れない存在だ。白いSUVから降りてきた男たちと何ら変わらない。
「頼る先がないのも事実か」
「とりあえず、話してみますね。何もしないよりはいいと思いますし」
口から出そうになった「やめろ」という言葉を飲み込んだ。
一歩間違えれば連れ戻されてしまう。気がつけば、自分の手を握りしめていた。
「高松さん。中世古さんと連絡が取れました」
電話ボックスから出てきた白石は、少しだけ表情を緩めていた。
「どうだった」
「迎えに来てくれるそうです。ただ、1時間はかかるとのことでした」
「そうか。ほかにはどんなことを話したんだ。私のことも話したのか」
「ええ、話しましたけど」
「何を言ったんだ」
反射的に尋ねた。
「何って、困った状況……つまり、研究所から逃げて車で追われたって。それで、もう一人いるって」
「すまない。問い詰めるつもりはない。状況を正確に把握したいんだ」
「ええ、わかってますから」
会話はそこで途切れた。
駅の待合室に移動し、レジ袋から菓子パンと飲み物を取り出して白石に渡す。白石は軽く会釈して受け取ると、包装を開けて食べ始めた。
やけに甘いメロンパン。私の口の中で砂糖の粒が転がった。唾液に溶けて喉に張り付いた。
中世古という男が来るまでの1時間、私たちは言葉を交わさなかった。
*
駅のロータリーに一台の車がやってきた。黒い車体だ。慌てて待合室の椅子の陰に隠れた。
ヘッドライトとエンジン音が消えると、運転席のドアが開いた。
中から出てきたのは男だ。胸ポケットからたばこを取り出し、火をつけた。
「あの男なのか」
「はい。あれが、中世古さんです」
ポロシャツに半ズボンで白髪交じりの短髪。顔つきから見るに、50代くらいだろうか。腹は少し出ている。車にもたれかかり、煙をふかしている。
「行きましょう」
白石が立ち上がる。肩をつかもうと手を伸ばしたが、空を切った。舌打ちして、膝を叩いた。
白石は中世古に向かって声をかけていた。
「ご無沙汰しています。中世古さん」
白煙が舞った。中世古が視線だけを動かして白石を見た。思い出したように、目が少しだけ開いた。手に持っていたたばこを地面に捨てると、そのまま足で踏みつけた。
「やあ、白石君。元気かい。見た感じはそうじゃないだろうけど」
「ちょっと、困ったことになりまして」
「まっ、話は運転しながら聞くよ。それで、もう一人いるんだろ」
中世古がこちらを見た。私は立ち上がり姿を見せた。ゆっくりと二人に近づいていく。
「慎重な男のようだ」
「それほどの状況にいる」
中世古の視線が、私の顔から身体へと下りた。研究所の科学者たちを思い出した。
「あんた、何やらかしたんだ」
「なにも。ただの被害者だ」
「……そうかい」
そう言うと、中世古は運転席に乗り込んでいった。白石と顔を見合わせると、白石はうなずいた。促されるように後部座席に乗り込んだ。
車はすぐに走り出した。ヘッドライトの明かりを頼りに暗闇を前進する。照らし出される光景は知らない景色ばかりで落ち着かない。
「大枝さんは元気」
「……ええ、大枝先生は元気です。この前も東京の講演会で登壇されていました」
「相変わらず、そういうの好きだね」
「好きというよりはお誘いが多いみたいで、断れないみたいです」
「師弟そろって、お人好しだ」
中世古の言い方には含みがあった。
「……そうでしょうか」
「巻き込まれてる」
「違います」
白石は息をのみ、言った。
「僕が巻き込んだんです」
「へえ、面白い」
「違う! 白石も、私も巻き込まれたんだ」
前のめりになって反論した。運転席の背もたれを握って力を込めた。
ただ、白石の言葉は灰色だ。彼は加害者でもあり、被害者でもある。そう思うと、上がっていた腕が下がっていく。
「全部、あの女たちが悪い」
「……聞こうじゃないか」
私はあの研究所での出来事を中世古に話し始めた。
拉致され、「ラブロマンスエキス」という薬を投与されたこと。
身体が分化して新たな性を得たこと。
そして、耐えきれなくなり研究所から逃げ出して今に至ると。
「小泉美子ね。あの女が関わってんだ」
「お知り合いなんですか」
「いや、名前だけ。有名人だ。医学、薬学、心理学で博士号を持っている」
「ずいぶんと詳しいんだな」
「論文を読んだことがある。悔しいが、ああいうのを天才っていうんだろうな」
なぜだかわからないが、腹が立った。
「ただ。あいつが研究していたのは精神に作用する薬だったはずだ。身体を作り替えるような話は聞いたことがない」
「そちらは、海野博士が中心でした」
「海野?」
「海野沙知さんです」
「知らないな。……へえ、俺の知らない天才もいたもんだ」
中世古の上機嫌なハンドルさばきで車は進んでいく。
たばこをふかしてご満悦だった。
「そんなに私たちの話が楽しいのか」
「面白いだろ」
「面白い? ちゃんと話を聞いていたのか」
「間抜けなやつを笑ってやってんだ。じゃないと、惨めでかわいそうだ」
「中世古さん、そんな言い方はないでしょ」
「いやいや、白石君。これは事実だ」
「車を止めろ! 私は降りる。こんなやつに助けられてたまるか」
「まあ、待て。悪かった。今のは余計だった。そうかっかするな」
「中世古さん。あの、僕たちを助けてくれるんですよね」
「そのつもりだ」
不信感だけが積もっていく。
この男が動いている理由は好奇心だ。面白そうだから首を突っ込んだに違いない。
だから、こんなにも楽しそうなのだと思った。
「具体的には」
「まず、病院に行ってインプラントチップを取り除く」
「取り除くだと。使わなければいいだけじゃないか」
「お前たち追われてたんだろ。不思議に思わなかったか」
「確かにそうですね。どうして、僕たちの居場所がわかったんでしょうか」
生体認証の利用履歴から追われたのだと思っていた。だから、現金を下ろしてからは一度も使っていない。
使わなくても、居場所がわかるのか。
「チップが位置情報を送ってるんだろう。研究所で何か埋め込まれなかったか」
「どうして、そんなことがわかる」
「いつもの手口だ」
「いつも……だと」
「居場所を把握するために、実験体には埋め込むんだ。外に出して観察したあとに、すぐ処分できるようにな」
「ずいぶんと詳しいな」
「俺は東邦ファーマの研究員だった」




