第29話『逃亡1』
私が外の空気を吸ったのは久しぶりだ。
雨水で浮き出た土の香りが鼻の奥を刺激するが、それを満喫する余裕はない。
私たちは資材搬入用のエレベーターから逃げ出した。運良く警備員に見つかることもなく、駐車場へと向かうことができた。
そして、白石の車に飛び乗って九条市内に向かっている。
「まだ、油断はできない。ここからは、時間との勝負だ」
「いったい、どこに向かえばいいんですか」
「まずは金だ、銀行でも、コンビニでも、どこでもいい。とにかく急げ!」
久方ぶりの乗り物は法定速度の範囲内でも、それ以上のスピードに感じられる。アスファルトに溜まった水たまりをタイヤが踏み抜けると、水しぶきが上がると同時に車が揺れる。普段なら文句をいいたいがそうも言っていられない。
「金を手に入れたら、次はどうするんですか」
「とにかく逃げるんだ。この街から遠くに、私たちのことを誰もしっていない場所に」
「警察が動くわけでもないのに、そこまでする必要はありますか」
「私たちは映画の世界の住人だと思え。メン・イン・ブラックだ。奴らに追われている」
「はあ」
気のない返事をされて白けてしまった。どうやら、あの映画を知らないらしい。傑作だぞ。鼻を鳴らして窓の外を眺める。ガードレールの外側に生えている木々は流れるように過ぎ去っていく。あったはずのものが、一瞬のうちに消え去っていく。私は遠くにある流れることのない山だけを見ることにした。
九条市内についたころ、腹の音がした。どのような状況でも腹は減るのだ。
「コンビニ、よりますか」
「……そうだな。そうしてくれ」
しばらく走ると、左手にコンビニの看板がみえた。
白石も気がついたようで、ウインカーをだしてコンビニの駐車場に入っていく。
車はほとんどなかった。
「一緒に行きます?」
「いかない。私は病院服を着ている。こんな格好で外に出れば怪しまれるだろ」
「それは確かに。何か必要なものは、食べたいものとか」
「ホットスナックが食べたい。鶏肉のフライだ。あと、炭酸も」
「わかりました」
バタンと音がして扉が閉まった。
白石が自動ドアの向こうに消えた。店内では、客が棚の前で商品を選んでいる。私は自分の姿を見た。コンビニで好きなものを買って帰る。そんな当たり前のことさえ、今の私にはできない。
車の中から見える九条市の町並みは、何も変わっていなかった。いや、きっとどこかは変わっているのだと思う。たとえば、アスファルトの白線が塗り替えられたり、どこかしらない店が閉店したり。それを私は知らない。
この町の人々は何も知らない。あの研究所のことも、私のことも。
変わっても何もなかったようになっている。
知らぬ間に疎外されてしまった。
私はこの町にいるべきではないのだろう。なぜだかそう思った。
運転席の扉が開いた。白石は手に袋を下げている。コンビニでこんなに買い物をしている人間が果たしているだろうか。
「はい、これどうぞ。袋分けてもらったんで」
「ありがとう」
袋の中にはスウェットと靴下、サンダル、おにぎり、ホットスナック、コーラなど、お願いした以上の品物が入っていた。彼なりの優しさなのだろう。
「車を出してくれ。すぐにこの町から出よう」
「どこに、いきます」
「きみは、西か東ならどっちがいい」
「東で」
車は走り出した。目的地はしらない。
ホットスナックを取り出して、かぶりついた。塩気と油が混ざり合った、濃い味がした。舌から広がる震えるような感覚にたまらなくなり、すぐに全部食べてしまった。ペットボトルの蓋を開けて、コーラを飲む。炭酸と一緒に油も流れていく。
視界がゆがんだ。鼻が痛い。手で目をこする。
私はこの味を覚えていた。それがうれしかったのだ。
*
「実は、三重に頼れそうな人がいるんです」
急に白石が言い出した。
「頼れそうな人。それは、だれなんだ」
「一言で言うなら、恩師の知り合いです」
「どんな人なんだ」
「あらかじめ断っておきますが、まずは話をきいてほしいです。あと、僕が知っている限りでは世間一般のイメージとはちょっと違います」
その口調から普通の人ではないのだろうということは想像に難くない。悪い人ではないと言いたいのだろう。ただ白石は根っからの善人だ。だまされている可能性もある。相づちを打って続きを促す。
「えっと、その人は闇医者なんです」
「闇医者とはなんだ。免許を持っていない潜りのことか」
「免許は持っていますが、やっている治療行為がよくない感じなんです」
「私は非常に悪質な人体実験の被害者なのだが」
「いえ、善良な闇医者なんですよ」
善良な加害者みたいなことを言っている。だんだんと、白石のことがわかってきたが、この言いっぷりは本気でそう思っているときだ。
「とりあえず、もう少し具体的に教えてくれないか」
「普通の医者なんですけど、裏の顔というか。病院って、病院側にリスクがないように治療をすると思うんですよね。だから、一般的にリスクの高い手術や倫理的に問題のあるようなことはしないんですね。でもその人はそうじゃなくて、治療費さえもらえれば患者の言ったとおりに治療をするんです」
「それで、闇医者って訳か。どうせ、治療費はぼったくりなんだろ」
「確かに高いですけど、そういう治療は保険のきかないものが多いらしいので」
つまり、あれだ。ブラックジャックというわけだ。と言いかけたが我慢した。知らない可能性がある。ただ、闇医者がどうして、助けになってくれるのか、いまいちつながらなかった。
頼めば、私の体を元に戻してくれるのだろうか。いや、それはないだろう。
美子は不可逆といった。なら、本当なのだろう。
「なあ、その人がどう助けになってくれるんだ」
「コネですよ。通じてるんですよ裏の人に」
「仲介屋みたいなものか」
私たちはもうはぐれものだ。隠れて過ごさなければならない。その手の者に触れておくのも悪くはない。ただ、金が足りるかは心配である。
「金は大丈夫なのか」
「コンビニで下ろした50万だけですね。メインカードは今も研究所にありますから。あと、ガソリン代と雑費で使いましたね」
「生体認証で引き出せる上限か。心許ないな」
「ですよね」
「……とりあえず向かってくれ」
バックミラーに映っているのは濡れたアスファルトだけだ。依然として追っ手が迫ってくる気配はない。
ここまで、なにもないと私が気をもんでいるだけなのかもしれない。いや、それは勘違いだ。
人類史上で私は最も価値のある生物になっている。それをみすみすと野放しにする理由は一切ない。
もし、私が追跡者なら。生体認証の利用履歴とこの車を追跡するだろう。
現金を下ろしてからは、二人とも生体認証を使っていない。車を追跡されるリスクを避けるため高速も使っていない。
安全なはずだ。
「高松さん、これからどうなるんでしょうね」
「なるようになる。そう考えるのが一番だ」
「せめて、屋根のあるところで暮らしたいですよね」
「確かにな。段ボールをかぶって眠るのは避けたいな」
「贅沢は言わないから、温かいものが食べたいです」
「三重に着いたらどこかで食事でもするか」
「いいですね。三重と言えば、松阪牛に伊勢エビですね。ごちそうですね」
「出所祝いだ」
白石の口から笑い声が漏れた。
反対に私は黙った。
「……どうしましたか、高松さん」
私が突然会話を打ち切ったことに、違和感を覚えたのだろう。白石もしゃべらない。
後ろ側に車が張り付いていた。
よくある、SUVだ。黒い外装でナンバープレートもついている。
だが、フロントにはスモークフィルムが貼り付けられており、運転者の顔が見えない。
それが2台もついてきている。そのうちの1台がウインカーをだした。
交差点などない。山間部の片側一車線の道で中央には黄色いラインが引かれている。
私たちは法定速度より少し速いくらいの速度をだしている。
にもかかわらず、後ろにいるSUVは私たちを追い抜こうとしている。
ハンドルの手前のメーターパネルに表示されるスピードは先ほどより上がっていた。
白石も気がついたようだ。
いやな予感がした。
SUVが私たちを追い越していく。一連の動きは丁寧だった。
ただの乱暴な運転者による追い越しではないのかもしれない。煽ってくるようなこともなく、そのまま走り続ける。依然として、後方車の車間距離は短い。
曲がり道は終わり直線が現れる。脇には路肩があった。
白石がハンドルを切り、路肩に車を入れようとしたときだった。
前方の車の赤いランプがともる。急にブレーキを踏んだのだ。
タイヤの甲高い音がする。白石もブレーキを踏んだようだが間に合わない。
衝撃音とともに、シートベルトが身体にくい込んだ。ハンドルが切られ、そのまま路肩に突っ込んだ。頭が一瞬強く振られて視界がぼやける。少し離れたところにSUVは止まっていた。灰色の作業服をきた男たちが降りてきたのがおぼろげにわかった。
逃げなければ。
男たちは運転席側から近づいてくる。私は助手席のドアを開くと飛び出した。助手席側は路肩に面しており、その先には下り斜面と立木があった。
「白石、はやくしろ」
運転席にいた白石は私に続いて助手席から外に出た。
斜面を転がるように滑り降りていく。
上の方で男たちがなにやら声を上げている。無我夢中で走り出した。もう、あの研究所には戻りたくはなかった。
足を踏み出すと、草を踏みつけ、藪の枝が折れていくのがわかった。雨が降っていたのだろう。足下は滑りやすい。だが、必死に腕を振った。
足がもつれた。
ふみとどまろうとしたが、膝に力が入らない。両手をついた地面は思ったよりも柔らかく、指が土に埋まった。
立たなければ。そう思うのに、息を吸うことしかできない。
「高松さん」
白石が私の腕をつかんだ。そのまま引っ張られて、立ち上がらされた。さっき着替えたはずのスウェット。膝から下は濡れている。台無しだ。
「走れますか」
「問題ない」
かすれた息が混じった声を出すのがやっとだった。
白石は私の腕を自分の肩に回した。
「すこし、下ります。つかまってください」
枝の折れる音が聞こえた。
振り返ると、木々の間に灰色が見える。男たちは斜面を下り、ゆっくりとした足取りでこちらを追ってくる。あちらにはまだ余裕があるのだ。
「止まってください」
止まれない。
白石に支えられながら、密集した木々の間を抜けた。斜面はその先で急に落ち込んでいた。足を滑らせながら下ると、振り返っても男たちの姿は見えなくなった。声と枝を踏む音だけが聞こえる。
しばらく下ると、地面がえぐれたように窪んだ場所に出た。底には濡れた落ち葉がたまっている。斜面側には土の縁がせり出し、その上を藪が覆っていた。
白石が足を止めた。私と斜面を交互に見る。
「ここ、下りましょう」
私はうなずいた。
先に下りた白石の手につかまり、腰を落とす。サンダルでは踏ん張りがきかず、足が滑った。最後には尻餅をついた。強い痛みが走った。奥歯をかみしめ、悲鳴を漏らさずにこらえた。
私はゆっくりと身を低くし、窪地の陰に身を隠した。
湿った土の匂いが鼻を刺す。水気だけではない。花粉やらカビやらあらゆるものが入ってきている気がした。
呼吸が乱れているせいか気分が悪くなった。それでも服の袖を口に押し当てて、息を殺した。
足音が近づいてきた。
「そっち、見えるか」
知らない声だ。白石の手はまだ私の腕をつかんでいた。手が震えている。目の前に、土の塊が落ちた。目をつむって身を縮める。
ここで見つかってしまえば連れ戻されてしまう。
白い何もない部屋だ。すべてのやりとりが壁越しに行われる。今みたいに、身体が軋むことも、汚れることもない生活。そんなのはもういやだった。それならば、このまま泥に埋もれて死んだ方がましだった。
「おい、こっちだ」
さっきとは違う声が少し遠くから聞こえた。上にいるであろう男たちの足音が離れていくのがわかった。
しばらく枝葉の揺れる音がする。人が鳴らすのか、それとも風なのか判断はつかない。顔を上げかけると、白石が首を横に振った。ただ、袖口をかみしめて音がしなくなるのを待った。
どれくらいそうしていたかはわからない。いつの間にか、呼吸は落ち着いていた。身体の力も抜けてきた。そのせいか、足や腰に鈍い痛みが染み出てきた。
よく見れば爪の隙間にも土が入り込んでいる。
「すこし、休みましょう」
私はうなずいた。
まだ、男たちはちかくにいるかもしれない。早く逃げなければと思うのだが、休んでいいのだ。そう思うと、ため息が漏れた。




