第3話『二匹目』
牧野を助手席に乗せ、私はピンクの軽自動車を走らせた。
平静を装っていたが、信号が赤になるたび、元彼の手が私の太腿に伸びてくる。この指に可愛く反応していたと思うと吐き気がした。払いのけたい衝動を、ぐっと飲み込んだ。
「そういえば、ちょっと寄り道してもいい?」
「いや、もう行こうよ」
「いいでしょ」
牧野は露骨に不機嫌そうな顔をした。
「あなたにとっても、いいことよ」
「いいことって?」
「特別な体験をするには、もう一人必要なの」
「それって、つまり……」
「一人じゃ満足できないの」
牧野は窓の外を向き、それきり何も言わなくなった。けれど、膝の上に現れた反応までは隠せていなかった。相変わらず、体の反応だけは正直だ。本当にチョロい男である。
車は都心へ入り、やがて一棟のタワーマンションの地下駐車場へ滑り込んだ。
博士の元彼は、この建物の二十一階に住んでいる。
「少し待っていてね」
「その人、ここに住んでるの?」
「ええ。かなり上等な男よ」
「へえ」
牧野は期待を隠そうともせず、妙な笑みを浮かべた。
私は車を降り、エントランスへ向かった。
事前に博士から教えられていた部屋番号を入力する。
『はい』
落ち着いた男の声が返ってきた。
「あの、小泉美子博士の使いで来ました」
わずかな沈黙のあと、解錠音が鳴った。
エレベーターで二十一階まで上がり、部屋の呼び鈴を押す。
扉を開けたのは、柔和な顔立ちの男だった。
細身で色白。やはり、私の見立てどおりだ。オメガの素質がある。
「どうぞ、上がってください」
私は部屋へ通された。
室内は綺麗に整えられていた。家具も家電も、一目で高級品だと分かるものばかりだった。この男が決断できなかったのは、金がなかったからではないらしい。ただ、どれもありきたりなモデルルームのような部屋にも見えた。
「どうぞ、掛けてください」
促されるまま、革張りのソファに腰を下ろす。
男は向かいに座った。私は神妙な顔を作って口を開いた。
「博士から、何か聞いていますか」
「いいえ。突然あなたが来たので驚きました。本当に美子の使いなんですか」
「はい。博士が、あなたに会いたがっています」
男はため息をついた。
「今さらですね。私を散々振り回しておいて、直接来ることもせず、あなたをよこすなんて」
被害者のような顔をしている。博士の話も聞かず、自分だけが傷つけられた物語を作る人だとは聞いていた。
結婚の話をするたびに、もう少し待ってほしいと答え続けたことは、すっかり忘れているらしい。
博士は待った。
一年、二年と待ち続けた。
子供が欲しいと伝えても、仕事が落ち着いてから。昇進してから。もう少し貯金が増えてから。
そうやって時間だけが過ぎ、医師から出産のリスクを説明される年齢になって、博士はようやくこの男を捨てた。博士に言わせれば、自分が振ったのではない。決断しなかったこの男に、人生の一部を奪われたのだ。私と同じように。
もちろん、そんなことを本人に教えるつもりはない。
「そうおっしゃらないでください。博士の研究はご存じですよね」
「人の精神に影響を及ぼす薬だったと思いますけど」
「正確には、認知機能改善薬です」
私は膝の上で両手を組み、少しだけ声を落とした。
「博士とあなたが別れたのは、博士があなたを好きになりきれなかったからだと伺っています」
「そうです。突然そう言って、振られました」
「ですが、それは博士の本心ではありません」
男の眉が動いた。
「博士には、特定の相手への情動形成が極端に阻害される症状がありました。症例が少なく、正式な病名もありません。博士はずっと、自分には人を愛する能力がないと思っていたんです」
男の顔から警戒心が薄れていく。
こちらの光へ向かって、ゆっくりと泳いできている。
「その症状を克服する薬が、ついに完成しました」
「まさか、その薬を使えば……」
「博士は、あなたをちゃんと好きになれるかもしれません」
男は黙り込み、目を伏せた。
「……美子も、そう言っているんですか」
「はい。だから、あなたに会いたいと」
「もう私には会いたくないのだと思っていました」
男は口元を緩めかけ、取り繕うように咳払いをした。
「でも、どうして美子が直接来ないんですか」
「世界初の臨床実験を、博士自身が行うことになりました。認知機能を変容させる薬です。投与量の調整があるため、研究所から出られません」
男は大きく息を吐いた。
「ああ、そういうことですか」
かかった。
チョウチンアンコウの疑似餌を、本物の光だと信じている。自分に都合のいい光が差せば、見たくないものなんて簡単に見えなくなるらしい。
「博士のもとへ来ていただけますか」
「少しだけ、支度をさせてください」
「もちろんです」
男は寝室へ向かった。
私は博士へ短いメッセージを送った。
――一匹、確保しました。
地下駐車場へ戻ると、助手席の元彼が窓を開けた。
「その人が、もう一人?」
博士の元彼が足を止めた。
「もう一人?」
「彼も研究所に用があるので、一緒にお送りするんです」
「一人じゃ満足できないんだろ?」
私は後部座席のドアに手を掛けたまま、牧野を見た。余計なことを。
博士の元彼は眉をひそめた。
「何の話ですか」
「彼とは別の話です。あなたには、博士に会っていただければ」
男は助手席から私へ視線を戻した。
「……美子と、二人で話はできるんですよね」
「もちろんです」
男はもう一度だけ牧野を見てから、後部座席へ乗り込んだ。
私はドアを閉めて運転席に戻る。二人とも、自分が何をされるのか理解していない。そのままエンジンをかけた。
「それでは、パーティー会場へ向かいましょう」
あれよあれよと事は進み、私は研究所に戻った。
大事な被験者を丁重に扱うため、応接室に案内した。とっておきの紅茶をごちそうしよう。一番いい茶葉をじっくり蒸らして、お砂糖と隠し味を少々。
「はい、どうぞ」
二人の前に特製の紅茶を差し出す。彼らは緩みきった表情で口をつけ、数分後に倒れた。
「博士」
奥の扉に声をかける。
「終わりましたよ」
博士が顔を出した。腕を組み、カツカツと足音を鳴らしている。
「ぐっすり眠ってるわね」
「ええ、一番いい茶葉を使いましたから」
「さあ、運び出して始めましょう」
「はい、博士」




