第2話『誘い』
それから私たちは元カレたちを拉致する準備に一ヶ月を費やした。
決行日当日の夜。
私はピンクの軽自動車に乗り込み、研究所をあとにした。
元彼の牧野に連絡し、警戒されないよう軽いやり取りから始める。少しだけ弱みをちらつかせると、すぐに返事が来た。
「チョロいわね」
メッセージの最後の行には「弱っているときくらい、オレに甘えてよ」とあった。下心が浮かぶ昔と同じやり口だった。
夜のハイウェイは、街灯と車のランプで輝いていた。
私はチョウチンアンコウのように光をともし、獲物を罠へ誘い込む。目的地は、かつて二人で何度も訪れた水族館だった。
近くの喫茶店に入り、元彼の到着を待った。紅茶を口に運ぼうとしたところで、背後から声をかけられた。
「久しぶり」
振り返ると、短く刈った髪と、服の上からでも分かる筋肉質な身体が目に入った。顔は相変わらずいい。
懐かしい声を聞いても、身体は何も反応しなかった。紅茶の一口くらい、ゆっくり飲ませてほしい。相変わらず、間の悪い男だ。
「うん、久しぶり」
私はタコのように表情と口調を変え、見事に元彼好みの女へ擬態した。平気なふりをしながら、つい男に甘えてしまうような女だ。鋭い目つきさえ和らげれば、三十路を前にしても可愛い女で通せる。
「沙知が連絡くれるときって、なにかあったときだよな」
「なんだ、分かってたんだ。やさしいね」
「まあ、な」
「いつも話を聞いてくれて、慰めてくれたよね」
「懐かしいな。オレの部屋で一緒に過ごして。ほら、あの映画。クマノミの家族のやつ、よく見たっけな」
「覚えてるよ。あの家族の話。最後のシーンでお父さんがお母さんの分まで息子に愛情を注ぐところは、いつ見ても泣けちゃう」
「いつも泣いてた。そのたびによく甘えてきたよな」
私は顔を伏せ、頬を赤く染めた。実際には、過去の愚かな自分に腹を立てていただけである。だって本当に泣いていたのだから。
「そのあとも、楽しかったよなあ」
牧野の視線が、私の胸元へ落ちた。心の中で舌なめずりをしているに違いない。
「ねえ、ちょっと昔みたいにさ、歩こうよ」
「いいよ」
「じゃあ、あそこ」
私は水族館を指さした。中へ入ると、入口近くの淡水魚のコーナーではグッピーが泳いでいた。
「懐かしいな。昔、飼ってたんだよ」
「知ってる? グッピーって、すごく愛情表現の激しい魚なの」
「さすが、海洋生物学の博士だね」
「もうやめちゃったんだ」
「そうなんだ。どうして?」
私は答えず、奥のエリアへ進んだ。
「見て。マグロがいるわ」
彼はばつの悪そうな顔をした。私を振るとき、「夜はマグロみたいだった」と言い残したことなど、本人は忘れていると思っていた。無意識に奥歯を噛み締める。口の中に、あの日と同じ鉄の味が広がった。
「なに、気にしてるの。私は気にしてないから」
彼は苦笑して、口を開いた。
「一応言っておくけど、抱き心地は最高だった。沙知はオレの人生の中で最高の女性だった」
「それって、相性だけ?」
「まさか、知的なところにもすごく惹かれてた」
口ではこんなことを言っているが、コイツはひどい浮気性だ。一人どころじゃない。分かっている範囲では三人はいた。おそらくもっといるのだろう。
最悪なのは、性病を何度も持ち込まれたことだ。そのせいで私は不妊症になった。子供を持つという選択肢は、そのとき私の人生から消えた。
私が子供を産めなくなったことを、あいつは「これで妊娠を気にせずやりたい放題だ」と笑っていた。私は決して忘れない。
「さっき、やめたって言ってたよね。どういうこと?」
「今は、違う研究をしてるんだ」
「あんなに好きだったじゃないか」
「今は、もっと大事なことに気がついたから」
「大事なことって?」
「製薬会社で働いてるの。研究内容は、いわゆる性に関すること」
「へえ。それって、バイアグラとか?」
「ふふ。そんなのより、もっとすごいわ」
「どんな?」
「グッピーみたいになっちゃうの」
「愛情深くなるってこと?」
「相手の都合なんて関係なく、何度でも求愛を繰り返すようになる。つまり、賢者タイムがなくなるってこと」
「それ、男にとっては夢の薬じゃないか」
「そうね。量さえ間違えなければ」
元彼が半歩、距離を詰めた。反射的に踵が浮いた。身体は逃げたがっている。けれど、釣りとは待つものだ。
「興味ある?」
「そりゃね」
「なら――」
水槽に映る元彼の口元は、サメのように吊り上がっていた。




