第1話『人類の可能性』
「博士。スティーブが妊娠しました」
「あら。じゃあエドワードがアルファね」
博士は振り向きもせず答えた。手にした小瓶を、うっとりと眺めている。
中には、美しいピンク色の液体。艶めかしい粘り気を帯び、瓶の中でとろりと揺れていた。
「経過は良好です。三ヶ月あれば産めるかと」
「三ヶ月。ずいぶん早いのね」
「もともとが二ヶ月半で産む生き物ですから」
私はケージの記録票を棚に戻した。エドワードは今朝も餌を散らかしている。スティーブのほうは巣箱に籠もったきり出てこない。
「ラブロマンスエキス。これさえあれば、人類の少子化を食い止めることができますね」
博士は無言で頷いた。その目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
長かった。私も同じ気持ちだ。研究者として過ごした時間のほとんどを、博士のそばで過ごしてきた。共同研究とは名ばかりで、私はほとんど助手だったけれど、寝食を忘れて研究に打ち込む博士の姿だけは誰よりも知っている。
「最初の被験者は誰にしますか」
「そうね。じゃあ、私とあなたの元カレでどうかしら」
「それは、ためらわれますね」
「どうして?」
少し戸惑った。博士の提案どおりになった二人の姿を想像すると、正直気持ちが悪い。てっきり、博士は私に気を遣って牧野の名前を出したのだと思った。
「被験者の選定に私情が入ります。データの信頼性が落ちる」
「あら。信頼性なら問題ないわ。健康な成人男性で、生活習慣に大きな偏りがなくて、既往歴も分かっている。むしろ理想的じゃない」
「牧野剛には既往歴があります。二〇三九年に淋菌感染症、二〇四一年に梅毒。どちらも治療済みですが、二回目の血液検査の日付だけ記録が飛んでいる」
言い終えてから、口が滑ったことに気づいた。あれだけの時間が経っても記憶に焼き付いているということだろう。未練たらしく覚えていることにも腹が立つ。
博士がゆっくりと振り返る。四十を過ぎても、その美貌には見惚れてしまう。
「よく覚えているのね」
「……論文の被験者データを扱う癖です」
「ふふ。じゃあ、なおさら適任じゃない。復讐よ。私たちを捨てた男に罰を与えてやらないと」
ああ、やっぱり。
「たしかに、罰は必要かもしれません」
「それに、私たちを振ったせいで少子高齢化は加速してるのよ」
いけない。
博士の顔が怒りで歪んでいる。このままでは、せっかくの化粧が崩れてしまう。
「そのとおりです、博士」
咄嗟に私は同意した。
「ふふ。このラブロマンスエキスを嗅がせれば、男なんてイチコロよ」
博士は怪しく笑った。
「あの男たちに嗅がせて、朝まで睦み合ってもらいましょう」
「まさか、原液で使うつもりですか」
「何かいけないかしら」
「原液を吸入させれば、三日以内にベータ化を経て、アルファかオメガのどちらかへ不可逆的に分化します」
「元の性別に関係なく、ね」
「はい。雄がオメガになることも、雌がアルファになることも確認されています」
「素晴らしいわ。男が産んで、女が産ませることもできる。生殖に性別なんて必要なくなるのよ」
私は博士を見誤っていた。科学者としての好奇心だけではなく、復讐心も同じくらい強い。
「ねえ、どっちがアルファになるのかしら。私は順次さんだと思うわ」
「なぜです」
「近くに二匹いれば、釣り合うように決まるからよ。エドワードとスティーブだって、体重差で決まったでしょ」
「それは違うと思われます」
「じゃあ、あなたは何で決まると思うの」
「素質です。博士の元カレを写真で拝見しました。細身で色白で、押しの弱そうな顔をしている。オメガの素質があります」
博士は声を上げて笑った。
「顔で決まるなら、それはもう科学じゃないわ。それに順次さんが弱いオスなわけないわ。彼がアルファよ」
「では、牧野がアルファです」
「あら、そうなのかしら」
「賭けますか」
「いいわよ。負けたほうが論文の第二著者。どうかしら」
私は頷いた。博士はまだ笑っている。
「さあ、始めましょう。まずは、男どもをパーティーにご招待しましょう」
「では、丁寧に拉致してきますね」
【作中用語について】
本作では、アルファとオメガは生殖上の区分です。アルファは妊娠させる側、オメガは妊娠する側を指し、性別にかかわらずどちらにも分化します。既存作品とは異なる、本作独自の設定です。




