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第26話『出口1』

 海野の手を握ったときに感じた違和感はうまく言葉にできない。彼女のお願いに対するものなのか、あるいは別のことなのかはよく分からない。そんな疑問を真剣に考えられるほど、心は穏やかではなかったからだ。

 ここから脱出できるときが、目前に迫っていた。私の脱出計画は海野にとってはお粗末なものだったと彼女の目つきが語っていた。


「それで、いいアイディアとは」

「大筋は高松のアイディアに賛成ですよ。ただ、バイオハザードを起こしたら非常用エレベーターには職員が殺到しますし、上階に着いても隔離されてしまうでしょうね」

「そうなのか」

「そういう風にここを作りましたので。普通に逃げても上階の警備員に捕まるのが落ちなので、逃げる場所を変えましょう」

「一体どこから逃げられるんだ。エレベーターは使えないんだろう」

「バイオハザードを起こして混乱している隙をみて資材搬入口から逃げるんですよ。私の権限なら基本的にどの扉も開けることができますから」

「え、海野博士。それじゃあ、無関係な人を巻き込むつもりですか。さすがに、どうなんでしょうか」


 どうやら、初めて海野と気が合うことが分かった。あのうんざりとした表情から見るに、白石に抱く感情は同じらしい。なんと説得しようかと考えていると、海野が言った。


「白石、少し前から薬を打っていると思うのだけど、違う?」

「そういえば、打ってますけど、それがなにか」

「あれは、抑制剤なの。ラブロマンスエキスの感染を防ぐための予防薬になっているから、他の職員への被害は出ないようになっている」

「そうなんですね。じゃあ、大丈夫とは言えませんけど、大丈夫そうですね」


 なぜ、最近になって抑制剤を職員が打ち始めたのかという点が引っかかったが、白石が納得してくれたほうが重要なことだった。海野のアイディアは確かに理にかなっている。問題があるとすれば、上層にいる警備員と冨永についてだった。


「バイオハザードが発生した場合の対応について詳しく聞きたい」

「汚染区域は閉鎖されて、各ブロックには隔壁が降りて通行止め。非常用エレベーターで上層まで上がれるけど、汚染がないとわかるまでは隔離される。上層にいる専門部隊が事態の収拾にとりかかる流れです」

「あまり時間はないということだな。あと、冨永は?」

「ちょうど、いまなら出張中でいないですよ」

「高松さん、絶好のタイミングですね!」


 タイミングが良すぎるように感じるが、海野がここにいる時点で本当に冨永はいないのだろう。迂闊に私と接触すれば要らない軋轢を生みかねない。そんなことは望まないはずだ。

 とすれば、白石の言うとおり絶好のタイミングだ。地上に出てからどう逃げるかは、まるで考えていないが、海野を使えるのもいまだけなのだろう。


「そうじゃない。私が聞きたいのは、君が冨永にどう扱われるかだ。君は私たちに脅された形とはいえ、協力するんだろう。あの冨永が君を許すとは思えない」

「冨永さんはここの管理者ですから、貴重な被験者が脱走したあとの対応を優先するはずです」

「たしかに、そうだろうな。では、その間に君もうまく逃げるということか」

「ええ、そうするつもりです」


 海野の表情をうかがうが、作ったような笑みを浮かべていてどうも気に食わない。逃げ出したあとに海野がどうなろうと私の知ったことではない。

 ここで問い詰めても、白石の不安を煽るだけだ。これ以上、追及する必要はない。


「じゃあ、あとは高松さんの足についている鎖だけですね」


 私はシーツをめくって、海野に鎖を見せつけた。足輪にある鍵穴に鍵を差し込めば開けることができるだろうが、物理的に破壊するのは難しそうだった。


「あら、これは困りましたね。うーん、そうですね」


 海野は悩むような素振りを見せてはいるが、ベッドのそばまで近寄ってから壁に備え付けられている呼び出しのボタンを押した。


「海野です。被験者の高松を研究棟に移送するので、拘束具を解除するための鍵を持ってきてください。あ、警備の人は不要です」


 そう短く言った。


「なにをやっているんだ」

「なにって、鎖をはずすなら、はずせる人を呼ばないといけませんから」

「計画はどうするつもりだ」

「白石は私にナイフを突きつけたままでいるように。これから、足の鍵を外して逃げるんですよ」

「え、その後はどうするんですか」

「高松が自由に動けるようになったら私の研究棟に向かいます。おそらくですが、異変に気がついたスタッフが通報をしているはずなので、5分も経たないうちに上階から警備員が駆けつけてくるはずです」

「そんな、無茶な。海野博士、こんなの絶対に失敗しますよ」


 白石の言う通りだ。こんなライブ感で物事を進められてしまえば、考える時間はおろか、主導権さえ握られてしまう。この女は自暴自棄になってしまっているのかと思えば、口調は妙に冷静だ。意図的にやっているということだ。


「落ち着くんだ、白石。海野のやっていることは滅茶苦茶だが、計画は案外いいものだと思う。準備ができていない点を除けばだが」

「ご理解いただけて助かります。ほら、足音が聞こえてきましたよ。白石、首に手を回して、ナイフを突きつけて」


 楽しげな声を上げながら、白石に指示を出している。この女も、狂った研究所の中で特別な存在なのだと肌身に感じた。

 足に取り付けられた金属から、冷たさが頭の先まで上ってくるようだった。とっさに足を振ると、その感覚は金属音とともに消え去った。同時に電子音が鳴り、入ってきた女看護師の悲鳴が聞こえてきた。


「え、海野博士に、白石さんがどうして」

「ああ、すみませんが、後ろにいる高松さんの足の鎖を外してほしいのですが」

「どういうことですか、なに、えっと」

「はあ、私は白石さんに殺されかかっているんですよ。私が死んでしまったら大変なことになると思いますけど」

「僕は海野博士を傷つけたくはないんですけど、あなたが言うことを聞いてくれないなら」


 白石のナイフを持つ手が海野の首元にぐっと近づいたように見えた。女看護師は再び悲鳴を上げると、「わかりましたから、ちょっと待ってください」と言いながら私の足に取り付けられた足輪を外した。

 足が自由になると、そのままベッドを抜け出した。


「高松、彼女を拘束して」


 看護師は多少抵抗したが、ナイフを突きつけられた海野を見ると、おとなしくなった。私は先程まで自分についていた足輪を、彼女に取り付けた。


「この人は、大丈夫なんですか」

「別にここに繋いでおくだけだから」

「すぐ警備員が来るんだろ、早く移動するぞ」

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