第24話『脅迫』
どうやら研究所内でトラブルがあったらしい。
そのことについて大いに心当たりがあったし、腫れた頬が当事者である事実を物語っている。研究員と被験者が治療を必要とするほど傷ついてしまったが、なぜそうなったのかは分からない。監視カメラの映像記録はその時間帯だけ抜け落ちていて、血まみれの被害者たちが倒れていたと、人づてに話を聞いた。
白石はどうやら生きているらしい。私は彼を守ると一応の約束を交わしたのだけど、それを果たすことはできなかった。彼は憤りを感じていて、すぐにでも理不尽な暴力に対する抗議と私への責任の追及をするものだと思っていたが、そういったこともない。
どのように扱うべきなのか、判断が難しい。せめて、白石に任せた実験の成果が出ていれば、冨永の行動がもう少し遅ければ、こんなにも悩まずに済んだのではないかと思わずにはいられなかった。
博士ならどうやってこの状況を切り抜けるのだろうか。きっと、淡々と状況を利害だけで整理して片付けるのだろうと思う。研究のことを考えると、白石は必要な存在ではないのだ。博士と一緒になって冤罪をかけようとしたときから、決まっていたことで迷う必要なんてない。約束をしてしまったせいか、お願いをしたせいか、どうにも非情な選択を取ることができないでいる。
もし博士がこのことを知ってしまったらと思うと胸が苦しくなる。身体の内側を巡る行き場のない不快感を吐き出す方法は分かっている。白石を切り捨てればいい。だが、実験の結果を失いたくないと思う。
数日が経っているのにもかかわらず、答えはいまだに出ていなかった。
悶々とした感情を抱えながら、パソコンでいつものように外で行われている実験のデータをまとめている。順調に感染者は増えているようだし、大きなトラブルもない。原液を使ったときと違って変化は非常に緩やかなようだ。特徴があるとすれば、徐々に平熱が上がってきているということだろう。あと数週間もすればベータ熱が発生し、身体が新しく作り変えられるための準備が整っていくのだろうと推測される。
レポートをまとめて、博士に報告をしたときだった。白石からメッセージが届いた。心臓が跳ね上がって、一瞬だが視界が鮮明になった。
一度、画面に表示されているものをすべて閉じた。
「どうしよう」
誰もいない研究室で独り言を呟いた。
そして、「どうしよう」とはなんだろうかと自分の言ったことに疑問を持ったが、いま考えることではないと思考を切り替える。マウスカーソルを動かして白石から届いたメッセージを開封した。
「お願いされていた研究の結果が出ました。直接、お話したいので救護室まで来てください」
と短く書いてあった。なぜ救護室なのかという疑問は、次の一文を読むとすぐに消え去った。
「高松さんが『オメガになって、生殖機能に関して分かったことがある』とのことです」
おそらく、白石は高松にうまく使われているのだと思う。下唇を舐める。
高松が私と直接話したいのだとすぐに分かったし、良くない方に物事が進むような予感も働いていた。
胸が高鳴っているというのは変な言い方かもしれないが、好奇心のようなものがある。興味を抑える理性を上回ってしまうほど気になる内容だった。
白石の実験の結果とオメガである高松自身が気がついた変化というのは、この研究において重要な意味を持つのは間違いない。緊張しているのだろうか、お腹がキュッと締まったような痛みがあった。
博士と冨永のスケジュールを確認してから、白石に会いに行く時間を伝えると、コーヒーを飲むために立ち上がった。いつも博士が語ってくれたコーヒーのウンチクを思い出して気持ちを落ち着かせた。
救護室に向かう途中、本当に行って問題はないのだろうかと自問自答を繰り返していた。それにもかかわらず、歩くスピードはいつもよりも早かったような気もしている。それに気がつくとその場で立ち止まって、深呼吸をするのだが、また歩き始めてしまうのだった。
消毒液の匂いが段々と強くなってきた。時折、すれ違うスタッフたちの姿も研究者というよりは医者や看護師が多くなってきたように思える。ここ最近、救護室に何度も足を踏み入れている。ベータ化したとき、冨永に殴られたときだ。自発的にこの扉を開けるのは初めてなのかも知れない。そう思いつつ、手首をかざすと扉が開いた。
救護室の奥のベッドで高松は横になっていた。私が入ったことに気がついたのか、上半身を起こして首を回している。
「お久しぶりです」
目だけが笑っていない笑顔で高松は私に声をかけてきた。頭には包帯を巻いていて、一見、重傷のようにも見えるが、どうにも元気そうだった。おそらく、冨永に暴力を振るわれたのだと思うのだが、高松がどのような利益を損ねる行動をしたのかは、はっきりとは分からない。おそらく、白石が関わっていることは確かだろう。二人は明らかに親しい関係だと思われたからだ。
「白石はどこですか」
「彼には実験データを取りに行ってもらっていますよ」
「いつから、実験する側の立場になったんですか」
「自分の身体を弄くりまわされた挙句、屈辱的な経験を何度も味わっていれば、身体の変化にも自覚的になりますよ」
「屈辱ですって、博士がどんな思いをしていたかも知らない人がよく言えますね」
「美子との関係に口を挟まないでくれるか。君には関係のないことだ」
「私と博士は、あなたと博士のような軽い関係じゃないんです。恩人であり、尊敬する博士があなたのような人間に貶められて良いはずがないじゃないですか。自分のやったことがどんなものかまだ分かっていないんですね」
「ああ、分からないさ。こんな目にあっている理由もね」
博士、この男はやっぱり駄目なやつでした。反省の色もなく未だに博士のことを貶めるようなことばかり言うクズです。私たちは、子どもを産めない同士で、研究者としてもより強い絆で結ばれている。ここ数年で費やしてきた思いや努力がこの男に通じていないことにも、腹が立っていた。
しかし、感情のまま話し合ってもいい結果は生まれないというのは良く分かっている。強く握られた拳をゆっくりと解いて、言葉を続けた。
「こんなことを話すために、私を呼び出したわけではないんでしょう」
高松は一度、俯いてからすぐに誰もいない方の壁を見つめながら話し始めた。
「君はえらくオメガというものに関心を持っているようだが」
「それが、どうかしましたか。普通のことです」
「普通というには、いささか、入り込みすぎているように思える」
指摘されていることはそのとおりだった。ここ最近で女性がオメガになったらどうなるかという興味が大きくなっている自覚はあった。本来の人類救済を優先するように自らを律しても、ふとしたところで意識がそれてしまうことが多かった。
「なにも言わないのか。そうだよな、私の言葉に興味を惹かれるくらいに関心があるにも関わらず、いまの君は興味のないふりをしている」
高松が私の顔をうかがってくるが、無表情を貫いた。
「おかしな点といえば、白石に実験を任せたことだ。君も分かっていると思うが、白石に何かを任せるにはリスクがありすぎる。善人すぎる。それなのに、どうして? 答えは君がそうせざるを得ない状況にいるということじゃないかな」
「私が聞きたいのはあなたの身体に起きた変化だけです。それがないなら、帰らせてもらいますが」
私は足を一歩引いて靴で床を叩く。高松は微動だにせず、ただ壁を見ていた。不気味な男だった。何を考えているのかが分からないのに、私の心のうちは読まれている。
「帰るつもりはないだろう。そのつもりなら、ここに来ているはずがないからね」
「それで、結局なにがいいたいんですか」
「つまり、海野。おまえは、美子に隠し事をしているんじゃないかって言っているんだ」
そう言ってから、私の方を向いた。




