第23話『救護室2』
「それで、どうやって逃げ出すつもりですか」
「そもそも、この研究所はどういう管理がされているんだ。まずはそこを知りたい」
ベッドのシーツを意味もなく叩いてみる。いまはアイディアを生み出すための材料が必要だ。白石はその答えを持っているはずなのだ。
「研究所の出入りは生体認証で管理されています。基本的にはインプラントチップを扉にかざすと自動で開きます。当たり前ですが、権限を持っていなければ移動はできません」
「一般的なセキュリティと変わらないな」
「この研究所は地下にあって、出入りには職員用のエレベータを使っています。資材搬入用のエレベータもありますが、僕の権限では動かせません」
「そういえば、権限が減ったと言っていたが」
「はい、海野博士がいる別棟への入室権限がなくなりました。別棟ではラブロマンスエキスなどの薬品の研究を行っています。あと、資材搬入用のエレベータを使う権限もなくなりました」
「逃げるには職員用のエレベータを使うしかないってことか」
顎を指でなぞると、いつもとは違う感触があった。少し気になったが、すぐに脱出のことに思考を戻した。もっと情報が必要だ。
「この部屋は、研究所のどのあたりにあるんだ」
「救護室は高松さんがいつもいる部屋の隣にあります。海野博士の研究棟、僕がいる研究棟、そしてこの棟が並んでいます」
「警備体制はどうなっている」
「二十四時間体制で監視されています。エレベータに乗るときは、一人ひとり認証しないと動きません。なにかトラブルがあれば、上階から警備員がやってくるようです」
「過去にトラブルがあったのか」
「詳しくは知らないですけど、研究中の薬品を持ち出そうとして捕まった人がいるらしいです。僕が入ってすぐの頃だったので、噂程度ですが」
「君が冨永に殴られているときはどうだった」
「警備の人は来なかったはずです。意識が朦朧としていましたけど、高松さんはすぐに医療スタッフに運ばれていきましたね。僕は随分とあとになって治療を受けました」
「なにか異常があれば、すぐに誰かがやってくるのか。厄介だな」
抜け道を探すにしても、情報が少なすぎるというのが素直な感想だった。異常事態をどうやって察知し、どれくらいで駆けつけるのかまでは、白石にも分からないのだろう。実際に試すわけにもいかない。できたとしても、警備が厳重になるだろうから、メリットはなさそうだ。
できそうなことといえば、職員用のエレベータに乗るくらいだった。乗ったところで、上階で警備員に捕まるのが落ちだろうから、脱出には使えない。
「高松さん、なにかいい案は思いつきましたか」
「いや、特には」
「そうですか。やっぱり、無理なんじゃないですか」
「……白石。君にも関わることだ。なにか思いつかないのか」
「そうですね。非常用エレベータとかどうですか」
「なんだそれは」
「え、緊急時の、あの、避難用のエレベータです。普段は使えなくてですね。だから、説明する必要はないかと思って」
どうして、逃げるというのになにも起こらない前提で物事を考えているのか分からない。ため息が漏れる。吐いた息は、どうにも重く感じられた。
「大丈夫ですか」
「で、その避難用はどうやったら使えるんだ」
「研究所内でなにか災害が発生したときですね。分かりやすく言うと、火事とか。いわゆる、バイオハザード的なやつも該当すると思います」
「それだ。それを使おう」
「火事を起こすつもりですか」
「ばら撒くんだ」
「なにを」
顔を上げて、白石の目を見て言った。
「ラブロマンスエキスだ」
「な、なんですって」
「あの悪趣味な薬を、この研究所の職員全員に摂取させてやるんだ」
「えっ、なにを言っているんですか? 無関係な人を巻き込むつもりですか」
「無関係なわけあるか! 私も君もこんな目に遭っているのに、助けに来ない奴らは冨永と大差ない。同罪だ!」
白石は口を開くも、言葉は出てこない。この状況の当事者なのだから当然だ。
「あの薬がどんなものかなんて知らないが、飲料水に混ぜたりすれば効果はあるんじゃないか」
「そんな簡単にはいきませんよ。第一、水と一緒に飲むものではないんですよ」
「白石、すぐにあのエキスをばら撒く準備をしてほしい。そうすれば、混乱に紛れて脱出できるかもしれない」
「僕が、ばら撒くってことですか」
「君しかいないだろ」
「待ってくださいよ。そんなこと、できるはずないじゃないですか」
「どうしてだ。できるはずだ。顔の傷を見て、誰かが優しい声をかけてくれたか? そんなことはないだろ? それに、死ぬわけじゃない。見ての通り異常はない」
「誰も気にかけてはくれないんですけど、でも、やっていいことと悪いことはあるじゃないですか」
「そうか。できないか。なら、仕方ないな」
「え、いいんですか」
「ああ、君ができないことを頼むつもりはない。ただ、お願いがある」
「お願いですか」
「その、ラブロマンスエキスというのを持ち出したい」
「どうしてですか」
「私はここから外に出られたら、世間にこの非人道的な実験があったことを公表するつもりだ。そのための証拠として、薬がほしいんだ」
「なるほど。じゃあ、ばら撒くなんてことはしないんですよね」
「もちろんだ」
「……あ。えっと、本当に持ち出すだけなんですよね」
無言で頷く。白石には悪いのだが、ラブロマンスエキスはばら撒くつもりだ。研究所内に混乱を起こすには、それしかない。ここを抜け出すことが最優先で、他に起きることは些末なことだ。アクリル絵の具を使って素晴らしい作品を作ったとして、絵の具を捨てるときに水質汚染なんてことを考えるやつはいないだろう。
「でも、僕はいま隣の棟に移動できないので、薬を持ち出すことはできないんでした」
「なにか方法はあるんじゃないか。たとえば、君の上司に頼むとか」
「さすがにそれはちょっと。仕事をお願いされることはあっても、こちらから頼むなんてことはできませんよ」
「それもそうか。とりあえず、海野と会って話してみるんだ。仕事の報告とか、そういった話の中で、必要な薬が足りないとか言って」
「たしかに。いま、メスのラットのオメガ化の実験をやっているんですよ。海野博士がどうしてもってお願いしてきたので、報告ということなら話せるかもしれませんね」
「海野が君にお願いをしたのか」
「はい、僕と高松さんを助ける代わりに、実験してほしいって」
妙な話だった。海野は誰かに頼るような人間ではないと思っていた。美子と同じ、ワンマンで研究を進めるタイプのはずだ。それが、なぜ白石を頼っているのか。理由は分からないが、何かあるはずだ。
「その実験、具体的にはなにをやっているんだ」
「えっと、普通のラットと不妊モデルラットの比較実験です」
「不妊モデル?」
「ああ、そうですよね。えっと、不妊にはいろいろな原因があって、遺伝子や細胞の異常で起こることもあるんです。そういう不妊の状態を再現したラットのことですよ」
「いや、そうじゃない。どうして不妊なんだろうかと思ったんだ。女性の病気なら、もっと他にもあるだろ」
「まあ、そうですね。いろいろな病気を一度には研究できないんで、たまたまじゃないですかね」
白石が危うい状況にいると分かっているのに、わざわざ頼んでいること自体がすでに変なんだ。そのうえ、不妊の実験をしろというのには、理由があるはずだ。なぜかは分からないが、少なくとも、何か隠しているのだろう。
「白石。海野と話したい」
「え、なんでですか」
「連れてくるだけでいい」
「無理ですよ。高松さんに会う理由がない」
「大丈夫だ。『オメガになって、生殖機能に関して分かったことがある』。そう言えば、きっと来るはずだ」
「本当ですか。まあ、とりあえず僕は、海野博士からラブロマンスエキスを貰えるように努力はしてみます。そのときに言っておきます」
「頼んだ」
「高松さんは脱出方法について、ゆっくりと考えてみてください。しっかり休んでくださいね」
「そうだな。少し熱が入りすぎていたかもしれない。横になるよ」
柔らかい笑顔を浮かべて言った。白石はお辞儀をしてから、「助けてくれてありがとうございます」ともう一度だけ言い、部屋の外へ出ていった。
さて、どうやって抜け出そうかと考えを巡らせる。いつものように顎に手を当てたとき、違和感の正体がやっと分かった。髭が生えていない。




