第22話『救護室1』
目を開けると知らない天井だった、とありきたりなことを思えるほど若くはないと思っていたが、実際にその光景を目の当たりにすると涙がこぼれた。
上半身を起こすと、身体からいくつもの管やコードが伸び、点滴や計測装置に繋がっていた。計測装置は一定の音を立てながら、私の身体の状態を記録し続けていた。壁際には、薬品が入っていると思われる棚がいくつか並んでいる。消毒液の匂いがやけにきつく感じる。
ここがあの白い部屋ではないことは間違いないようだ。いったいどこなのだろうか。そう思ったとき、ひどい頭痛に見舞われた。頭を押さえると、包帯のようなものが巻かれていることに気がついた。
ベッドから降りようと足を伸ばすと、金属同士が擦れる音が聞こえた。気だるさを抱えたままシーツをめくると、足首にはご丁寧に鎖が付けられており、その先はベッドのフレームに固定されていた。
少なくとも、生きていることは分かった。場所は変わったが、何もできない状況は同じだ。私はしばらく眠ることにした。
どれくらい眠っていたかは分からない。何やら人の気配を感じ、目を覚ました。意識ははっきりしないのだが、じんわりと頭に痛みが広がっていく。歪む視界に映ったのは、白衣姿で顔の半分に包帯を巻いた男だった。
「高松さん、高松さん」
「やあ」
彼は両手で私の手を握ると、「よかった、ああ、ほんとうに、よかった」と何度も繰り返した。涙も流しているようで、落ち着くまで待つことにした。
白石が生きていて本当に良かったと思う。思い返せば、彼が食事を持ってきてくれたときに交わした他愛のない話は、地獄のような環境で生きるための小さな活力になっていたのだと改めて感じた。
私も感謝をするべきなのだろう。握られている手をそっと握り返す。すると、白石は大事なものを包むように握り返してきた。ほどなくして、白石は落ち着きを取り戻した。
「助けてくれて、ありがとうございました」
その声は切実だった。握る手の温かさからも、それは伝わってくる。
「いや、良かった。生きていて」
「怪我は大丈夫ですか。僕を助けるために、こんな怪我をして」
「気にしないでくれ。あのときは、ああするしかなかった。二人で生き残るためにはね」
「ありがとうございます。もう、なんと言っていいか」
白石はようやく手を離してくれた。
「それで、いまの私たちは、どういう状況なんだ」
「はい、高松さんが頭を壁に打ち付けたあと、すぐにこの救護室に運ばれました。幸いにも傷はひどくないようです。ただ、もうしばらくはこの部屋で過ごしていただくことになると思います」
「冨永はどうしている」
「特になにもしていないです。僕の前にも顔を出すことはないですね」
「まあ、どうだろうかな」
私の交渉が効力を発揮している間は問題ない。冨永にとって、私は弱者には映っていないはずだ。
「白石はどうなんだ。怪我の調子は?」
「僕はまあ、大丈夫です。頬も時間が経てば治るみたいですけど、ヒビが入っているそうです。あとは、いままで通りに研究をするのが難しくなりました」
「研究が難しいとは、いったいなんだ」
「僕の権限に制限をかけられました。海野博士のいる棟への入室権限はなくなりましたし、いま必要な研究室への出入りしかできなくなりました」
「まあ、君に余計なことをされたくはないんだろう」
「高松さんにしてきたことも、余計でしたか」
うかがうように尋ねてきた。
「迷惑なら助けはしないさ」
「そう、ですよね。ありがとうございます」
白石はうつむいているが、ベッドにいる私にはその表情がよく見えている。深い藍色の痣に、淡い白色の包帯が浮かぶ顔、と言えばいいのだろうか。
自業自得ではあるが、白石の研究者としての道はほぼ閉ざされてしまったのかもしれない。異常な環境だからこそ、彼を止めなければならなかったと見るべきなのだろう。
「白石。お礼は受け取るが、私たちはまだ安心できるような状況じゃない」
「安心ですか。でも、冨永さんは僕たちにはちょっかいを出さないんじゃないですか」
「いや、あの男がそんなわけはない」
冨永は主人の利益を優先する理性的な面を持っている一方で、彼の世界のルールは純粋な力だけだった。しばらくは大丈夫だろうが、研究が進んで私が用済みになれば、必ず始末されるだろう。
「どうするんですか」
「ここから逃げるんだ。君も一緒だ」
「ぼくも、ですか? でも、いったいどうやって」
「君の協力が必要だ。どうか手伝ってもらえないか」
「いや、どうなんですか。逃げて、大丈夫なんでしょうか」
逃げて大丈夫かという白石の不安は分からなくもないが、残ったところでなにがあるというのだろうか。
人権を侵害し、倫理観の崩壊した研究所で行われる隠匿された実験に参加して、世界初の男性出産の実験体になるのが落ちだ。せいぜい、生活には苦労しなさそうというところだけがメリットだと思う。
いや、白石が心配しているのは、どちらかといえば生活面の話だろう。
「まあ、なんとかするしかないだろう」
「あてはあるんですか」
「何もない。いまから準備するしかない」
「ぼくが動くしかないってことですよね。でも、逃げられる保証なんてないじゃないですか」
「たしかに。ただ、君の頬を殴った冨永は、君をただでは済まさないだろう。それに、前に言っていた海野の話も嘘だったんじゃないのか」
「嘘だったって、え、でも、そんな」
「現状の君の立場は非常に危うい。もう、頼れる人間はいないんじゃないか」
「でも、あれから海野博士とは話せていませんし、今回のことをまだ知らないんじゃないかと……思います」
「全ては推測だ。だが、状況を整理した結果、私たちが危機的状況にいるのは確実だ。行動を起こすしかない」
シーツをめくり、足首についている鎖を見せつけると、白石の表情が変わった。
現実を再認識してほしかったのだ。物事に対する受け取り方が、どうも楽観的すぎる気がする。いまも、上司の海野がもしかしたら助けてくれるかもしれないと期待を寄せているに違いない。
「高松さん、それは」
「見ての通り、鎖で繋がれてしまった。少しは自由になれたと思ったんだが、扱いは以前よりもひどくなっている気がするよ」
「こんなのあんまりです。鎖で繋ぐなんて、どうかしている」
「仕方ない。これが彼らのやり方なんだ。あの部屋に帰っても、おそらく身動きが取れなくなるだろう」
大げさにため息をつき、俯いてから目をこすってみせる。鼻をすすり、肩を揺らしてみた。
「白石。頼む、私を助けてくれないか」
「……で、でも」
「私の姿を見ているだろ。君も権限を剥奪されて、だんだんと身動きが取れなくなっている。研究員の立場だからその程度で済んでいるが、やがて私と同じになる」
白石の視線が私の足の方に向いたとき、足を動かして鎖が擦れる音を鳴らした。
「どうすればいいんですか」
「それはこれから一緒に考えよう。それに、いまはチャンスだ」
「え、チャンスですか」
「そうだ。アイツらは私たちが動けないものだと思っているはずだ。だからこそ、隙が生まれる」
畳み掛けるように、メリットがあることを伝え続ける。躊躇っているのであれば、そこから踏み出せるだけの理由を与えなければいけない。ほんの少しだけ傾けられれば、それで良かった。
「いましかないってことですよね。そうか、高松さんを助ける最後のチャンスなんですね」
「ああ、そうだ」
私は深く頷いた。




