第19話『裏切り』
数ヶ月、この純白の部屋で暮らしているが、これほど時間が長いと感じたのは久しぶりだった。
白石が最後に私の前にやってきたのは何日前になるだろうか。混乱している彼の心の揺れは本物で、それを優しく包み込むように掴んだはずだった。それにもかかわらず、なにも変わっていない。握った拳から親指だけを立て、口元に運んで爪に歯を立てようとしたとき、思いとどまった。指は清潔であるべきだと思ったからだ。
彼が現れないということは、すでに消されてしまったのかもしれない。つまり、私は彼の心を丁寧に修繕して保存したつもりだったが、実のところはただ別の感情を掻き立ててしまった可能性があるということだ。
そんなことを考えている時に、食事を運んできたのは白石だった。どうやら杞憂だったようだ。いつものように壁のボタンを押してトレイを入れると、私の部屋の壁の一部が開いて、食事が届いた。それを受け取ると、そのままベッドに腰を掛けた。
食事に手を付ける前に、彼の顔を見て言った。
「ありがとう」
「いえ、仕事ですから」
いつもと様子が違っている。
「今日は調子が悪いんですか。元気がないように見えますが」
「いえ、元気ですよ」
「はは、これじゃ、いつもと立場が逆だね」
「お元気そうで、良かったです。それじゃあ、ぼくはこれで」
「いや、待ってくれ」
反射的に声が飛び出した。
トレイに載ったスープが少しこぼれたが、そんなことを気にしている状況ではない。
ベッドの上にトレイを置いてから、ガラスの前まで早足で歩いて、もう一度「待ってくれ、白石さん」と声をかけた。ガラスには私の吐く息がかかり、一瞬だけ白く染まった。
「はあ、何でしょうか。生活に不便がありますか」
「そうじゃない、生活にはまあ、不自由はない。自由がない点を除けばだが」
「それは、我慢していただきたいです」
「私が言いたいのは、例の話だよ。ほら、この前話した……脱走の話だ」
白石の身体が揺れた気がした。
白衣のポケットに手を突っ込んだまま振り向きかけたが、私に正面を向けることはなく、半身だけこちらへ向けて視線を伏せた。
「それは、もう大丈夫ですよ」
「大丈夫とはどういうことです」
「海野博士に全て話して、僕が研究を手伝う代わりに安全を保証してもらいました」
「全部話した? 全部ってなんだ、なにを話したんだ」
「僕たちの安全のことや、高松さんが逃げようとしていることもです。あ、でも海野博士は逃げることに関しては、そんなに気にはしていませんでしたよ」
「馬鹿なの君は」
心のなかで思ったはずの言葉は、気がつけば口から飛び出していた。
「馬鹿ですか。それはちょっと高松さんでも、言い過ぎな気がします」
「いや、すまない。そういうつもりじゃないんだ。ただ、君が素直すぎると思っただけだ」
「上司に状況を正しく伝えることは、仕事において大事なことではないですか」
「確かに、仕事においては重要だ。だが、私たちにとって、重要なのはそこじゃない」
「意味がちょっとわからないのですが」
意味がわからないだと。この男は黒になにを混ぜても黒くなることを知らないのか。
「つまり、君は海野博士を信用しているが、君の安全を守れる保証はどこにもないと言っているんだ」
「たしかに、冨永さんとは揉めましたけども、海野博士が間を取り持ってくれると思いますし、かかわらなければ大丈夫なんだと思いますけど」
「いいか、ここは真っ当な場所じゃないだろ。倫理観は否定され、暴力が肯定される場所だ。さすがに、甘すぎる」
「それは、理解しています。ただ、組織としての規律とルールは適用されているはずです。それがなければ、ここまで大きな研究を秘密裏にできるはずありませんよ」
一理ある。
これほど大きな組織が規律もなく運営できるはずがない。
だが、その規律が私たちを守るとは限らない。白石はそこを理解していないのだろう。それでも、この男の理屈を覆すだけの材料は、いまの私にはなかった。
「考え直してもらうことはできないか」
「だから、大丈夫です。僕がちゃんとしていれば、高松さんは安全なので」
「私はここから出たいんだ! 安全だと言うならここから出してくれ」
白石は私に背を向けたまま歩き出し、出口の前で立ち止まった。
「僕はこれから牧野さんのところに行く必要があるんです」
「どうして。食事を届けるだけなら、もう少し時間をくれないか。牧野についても聞きたいことがあるんだ」
「海野博士に頼まれごとをしていて、牧野さんに用事があるんです」
「今度はどんな実験をするつもりなんだ」
「それは言えないです。仕事なので。じゃあ、それでは」
ガラスを思いっきり叩いたが、ただ痛いだけだった。
それでも手を押し付けて、身体がこわばっていくのが分かった。
そのまま、二度三度と両手を叩きつける。
「くおおおおおおおおお」
大声を出してもなにも起こらない。ただ虚しいだけだ。
ベッドに勢いよく腰を下ろすと、トレイにあった食べ物が飛び散り、白いシーツに様々な色のシミを作った。
シーツに飛び散ったハンバーグのケチャップを指できれいに拭き取ると、そのまま舌で舐め取った。
酸味が鋭く舌の上に残っていたが、それよりも気になったのは、拭き取ったあとのシーツが薄暗く汚れてしまったことだった。
今晩、清潔なシーツで眠るには職員が来るまで待つしかなかった。
そう、いまは待つことしかできないのだ。
そう言い聞かせて食事を取り始めた。




