第18話『サプライズパーティー2』
夜といえば真っ先に思い浮かぶのは、ベッドの上で無気力に寝転がる少女の姿だった。
彼女は一週間前に夢の一つが叶わなくなったことを知ったばかりだった。特に夢に向かって努力をしていたわけではない。むしろ、その途中で道を踏み外したと言うべきか、振り回されたというべきか。
言い訳をしても仕方はないのだが、自分で選んだことなのだから私が悪い、と片づけることはできなかった。
その日は三日月とも半月とも言えない、中途半端な月が美しく佇んでいた。
マンションから少し歩いたところには長い川があった。丁寧に整備された遊歩道には街灯とベンチが一定の間隔で配置されているし、街路樹も合わせて伸びている。
私はベンチに座り、川の流れを見ていた。力が抜けていくのが分かった。
川の流れとは反対の方向に学校があって、友人も彼氏も、夢さえも、そこにあるはずだった。
一度目の失敗で、諦めてしまうべきだった。けれど、そこから離れることを受け入れられず、抵抗を続けた。
心に形があるのなら、当時の私の心は、水底に沈む岩のようだったと思う。流れに逆らい、その場にとどまろうとするうちに削られ、とうとう小石になった私は、街から遠く離れた海へと流されてしまった。
知らない色。知らない温度。光が見えない。
そこにたどり着いてようやく、自分の子供を産みたかったのだと、失ったものの大きさを思い知った。
私はただ、牧野を信じて身体を委ねただけだった。それで、いつか母親になる未来まで失ってしまった。
また、世界から追放された同胞に巡り合うことになった。小泉美子である。
「沙知さん、大丈夫? 酔ってしまったのかしら」
耳元で馴染みのある声を聞いて、ようやく音の聞こえが良くなってきた。
重低音の振動が身体の中に入り込んで骨を震わせてくる。赤や紫、緑に黄色が降り注ぎ、あたりにいる大勢の人の輪郭を塗り替えている。
フロアには百人程度の人がいる。腕を上げ、忙しなく動き回り、肩がぶつかっても誰も気にはしていない。汗や香水、酒にタバコ、人の欲望を詰め込んだ重層的な匂いが漂っている。
このあと、十分ほどで、ピンク色の霧が降る。
「すみません、博士。ちょっと、考え事をしていたみたいです」
「あら、ここではそんな顔してはだめよ。楽しまないと」
博士はグラスを片手に持ち、その場でステップを踏むと、ボルドーのワンピースのスカートが揺れた。細身のハイヒールで器用なものだなと思う。
「なんだか、すごく楽しんでませんか? 仕事中ですよ」
「一流はね。どんな状況にも適応できるものよ。映画のスパイだってそうでしょ」
「言えてますね。じゃあ、気を取り直して」
グラスを掲げると、博士も腕を伸ばした。グラス同士が触れ、硬く澄んだ感触が伝わってくる。
うるさすぎて音は聞こえない。ここはそういう場所だ。
ナイトクラブ「ライム・ラッパーズ・ショット」が今日のパーティー会場だ。
街の中にいくつかあるクラブの中でも、客層が変わっていることで有名だ。一言で表すなら、牧野に似た生物が群れをなして、本能のままに全身で快楽を享受するような場所だった。
VIPルームでは薬もセックスも、何でもありだ。そういう場所だからこそ、実験の場所には相応しいのだ。
不意に音が消え、フロアの雰囲気が変わった。
ステージの上のDJがマイクを手に取り、腕を突き出して客を煽るように声を投げかけると、歓声が巻き上がった。私と博士は静かにその様子を眺めていた。
「ここから話題沸騰の人気グループのライブだ! みんな、準備はできてるかー!」
フロアから返事のように歓声が上がり、ステージを照らすライトの色が変わりだす。
そして、ギターを抱えた、髪の長い女性が登場した。内側と外側で異なる派手な髪色をしている。
「さあ、ここからはセリカのライブだ! 今日は最後まで思いっきり盛り上がっていくぜ! お前ら、声出せるかー!」
私はその声に返事はしないが、心の中にはこの場所にある熱気だけでは表せないものが蠢いていた。
「今日ここに来たこと、絶対に忘れられない夜にしような!」
そう。忘れられない日になる。私たちにとっても、これから何が起こるか知らないあなたたちにとっても。
演奏が始まった。ハイテンポな音楽に身を任せ、考えることをやめることにした。
人類の救済も、これから起こることも、それから。
「博士、踊りましょう!」
「あら、良いじゃない」
博士はなにを考えているのだろうか。ここから先はもう戻ることができないということはわかっている。
新世界が始まる喜びに満ちているのだろうか。それとも、ただ享楽に身を委ねているのか。わからない。
身体を動かして余計なことを振り払うのだ。ナイトクラブはそういう場所だった。
過去も未来も知ったことではない。ただ、刹那の感情を楽しむことができたのは、私がベータになったせいなのだと思う。
セリカと名乗っていたボーカルが大きく声を上げた瞬間だった。
爆発するようなピンク色の煙がすべてを包み込み、会場の熱さに押しのけられるように霧散した。
百倍に薄められたラブロマンスエキスがこのフロア一帯に散布された。
誰も彼もがその事実に気が付かない。おそらく、数ヶ月ほどの緩やかな変化でベータ化が行われ、そして分化していく。
「沙知さん。私の願いがようやく届くわ」
「……ですね! でも、私たちのですよ。これからが楽しみですね!」
私たちはその後、フロアの観客たちをつぶさに観察しながら、踊り続けた。
観客たちは熱狂している。ある者は酒を片手に踊り、ある者は疲れた身体を休めながら、男たちを誘惑する。
誰も彼もが、異常な状態だったが、ここでは正常なのだ。なんの変化も見られないが、確かに実験は行われている。
三十分ほど経ったころに、私たちはフロアの外に出て、バックヤードに進んでいく。
胸にしまっていたカードを屈強な男に見せると、なにも言わずに扉を開けてくれた。さらにその奥にも黒服の男がおり、扉を開けてもらって中へ入っていく。
会場の様子を映す画面と複数の計器類が完備された監視部屋だ。あの白い部屋と同じような設備が並んでいる。
「ずいぶんと、楽しまれていたようですね」
冨永の無機質な言葉が投げかけられた。
「ええ、研究ですから、ライブ感も大事でしょう。よく観察できたわ」
「博士の言うとおりです。異常な変化がないことは直接確認してきましたから」
「まあ、いいでしょう。あなたがたは特別ですから。ある程度の余白を残さねば人は進歩せぬ、と主も申しております。ただ、成果は出していただきます」
「もちろんよ。いま軽くデータを見ているけど、動物実験や彼らに協力してもらった実験の結果から、予測した範囲内の変化は確認できているわ」
「なら、言うことはありません。引き続きよろしくお願いします」
そう言うと冨永は一礼してから部屋の外に向かって歩き出した。
「楽しみに行くのかしら」
「御冗談を」
扉が閉まって、静かな時間がようやく訪れた。
「あと少しデータをまとめたら、今日は終わりですね」
「そうね。ここからは、とくにすることはないわ。ただ、時間が経つことを待つだけね」
博士の顔はさっきと打って変わって寂しそうに見えた。
「そういえば、ベータ化した人間が訴えてきたらどうしますか」
空気を変えたいがために、少し変な質問を投げかけてしまった。
「ここって、会員制でしょ。利用規約変更しといたわ」
「ああ、免責事項に追加された内容なら、なにが起きても問題ありませんね」
“当施設内で発生したいかなる身体的・生理的変化についても、来場者は事前に同意したものとみなす。”
と一行ほど追加されていた。
「あと、保険もかけておくわ」




