第17話『取引』
散布計画の準備がついに整った。
冨永が納得する真実だけを話し、資料には偽装工作を施している。
明後日には散布が実行されるのだから、計画に抜けがないよう入念にチェックをしなければならない。
ふと、手が止まった。昨日の夜、博士と一緒になって遊んでいたことを思い出したためだ。
オカルト雑誌「実話Honto」に送った怪文書にはこだわっていた。
「古代シャーマンの神秘の秘術を東◯ファーマが再現か。男が妊娠する妙薬の真実!」とわざわざリーク内容に見出しをつけ、スクープ記事のように仕立てていたため、妙に笑えてしまった。
証拠として高松の身体のCTも送りつけた。男性の骨格にあるはずのない子宮が存在しているから、精巧に作られた合成写真にも見える。
まさに、木を隠すなら森の中、サンゴ礁の中にカニダマシである。
私以外に誰もいない研究室で、口元を手で覆って笑う
くしゃみを我慢するみたいに、身体がこわばって、お腹に力が入る。
特にCTはよかった。思わず力が抜けて、溶けるように椅子に身体を預けた。
息を整えるために深呼吸をしたときだった。呼び鈴の音が聞こえてきた。
研究室の入口にあるインターホンを誰かが押したようだ。
すぐに研究室の扉の横に備え付けられたモニターまで向かうと、画面に映し出されていたのは白石だった。
頬や鼻が赤く腫れ上がっているし、片方の目はうまく開けないのか半開きで、ソワソワとした様子だった。応答ボタンを押して「はい、もしもし」と言った。
「あ、あの。海野博士はいらっしゃいますか」
「海野は私ですが、どうされましたか」
「お話があって、その、研究室の中に入れさせていただきたいんですけど」
「はあ、その用件を伺ってもいいですか」
スピーカー越しに息を呑む音が聞こえたかと思うと、入口にいる白石は大げさに首を横に振ってから口を開いた。
「その、高松さんのことでご相談があって、ここで話せる内容ではないので」
めんどくさそうな要件だった。そして、次に思ったのは、馬鹿なのだろうか、ということだった。
私が白石の腫れていないほうの頬に平手を打つことが、優しさに思えてくるほどだ。前髪を1回払った後に、断ろうとしたが思いとどまった。
「どうぞ」
ドアを解錠して、自席に戻った。放置して冨永に会ってしまったら、昨日の成果は台無しになってしまう。仕方ないのだ。
「失礼します」
声のしたほうを振り返らず、椅子に座り直した。
足で床を蹴って椅子ごと向き直った。改めて見た白石には、殴られた跡がそのまま残っていた。白石は落ち着かない様子で指を動かしていた。白石が拳を握ろうとしたとき、人差し指だけが震えていることに気がついた。
「それで、高松がなんですか」
「様子がおかしくて、なにか変な気がしているんです」
デスクの脇にある研究用のタブレットを手に取ると、高松のデータを呼び出した。
「特に異常な数値は確認できませんけど」
「精神的な状態を気にしています。やけに僕に同情的になってきたり、と。その……」
どうも歯切れが悪い。
「はっきりしてくれませんか。わたし、忙しいんです」
「……高松に言われたんです。ここから逃げ出したいから助けてくれって」
「は?」
「だから、高松が脱走したいって」
口調は重々しいのだが、まるでペットがケージから逃げ出そうとしているかのような話しぶりだった。
半分が腫れているせいで、眉をひそめたのか痛みに耐えているのかも読み取れない。
「えーと、それで、なんて答えたんですか」
「それは、何も言ってないです」
「じゃあ、なにも問題はありませんね」
手に持ったタブレットを机の上に置くと、パソコンのキーボードを叩き始める。
この話はもう終わりだった。
「それでは、仕事に戻りますので。あーそうだ、高松には近づかないようにしてくださいね」
「え、それはどうしてですか」
「あなたが高松と接触することが危険だからです」
「そんな、困ります」
「は? 脱走の手伝いをするつもりですか」
「そういうわけじゃなくて、高松さんが心配で」
小指がエンターキーを勢いよく押し込み、甲高い音を立てた。
「ご自分の状況を分かっていますか。あなたがこれ以上、厄介事を起こすと本当に死にますよ」
「そんな、さすがにそれは……」
白石は真っ赤に染まった頬に手を添えると、うつむいた。
口元が頬の痛みに連動するように動いていた。
「ぼくはどうしたら」
「仕事だけをしていてください」
「でも、ちゃんと仕事をした結果がこれじゃないですか。そういった配慮をするのも大事なことだと思うんです。安全は守られるべきなんです」
「高松の安全ですか? 白石さんの安全ですか?」
思わず机の上を叩いてしまった。
「ちゃんと、答えたほうが良いと思いますよ」
「どちらの安全も守られるべきです」
一瞬、返す言葉が出てこなかった。
どちらかを選ぶように言ったはずなのに、この男は当たり前のように選ばなかった。
聞き間違えたわけではなく、受け取ってすらいないようだ。
喉の奥に何かが引っかかったが、正体は分からなかった。
「あなたが高松に近づかなければ、解決する話ですけど、違いますか」
「他に方法はないんですか。海野博士ならなんとかできるんじゃないんですか。ぼくを殴った男にも融通が利くんじゃないですか」
高松の話をしに来ていたはずなのに、いつの間にか自分の話を始めてしまっている。本人が気がついている様子はない。
「冨永さんはそういう人じゃないって、わかっていますよね」
「守ってくれないんですか」
「なぜ、私が白石さんを」
「僕より上の立場ですし、この前、殴られたときに、助けようとしてくれましたよね」
つい、可哀想だったから手を差し伸べてしまった。
あのときから彼は変わっていない。正しいことをすれば、正しい結論を得られるはずだ。
誰かがやってくれると、そう思える純真さには感心してしまう。
私はもう差し出している。彼はまだだ。
深呼吸をすると、熱くなっていた手のひらがゆっくりと冷えていくようだった。
静かに言った。
「私のお願いを聞いてもらえますか」
「聞けば、助けてもらえますか」
私は真顔のままで白石を見た。
「調べてほしいことがあるんです。女性のオメガについて、詳細なデータともともとの生殖機能がどうなるのかを」
「それは、なぜ。どうなるかって」
「牧野は男性のアルファになりました。その際に、生殖機能が向上している可能性が示唆されています。では、女性のオメガは? 性別と第二性が一致した場合はどうなるのかを調べてほしいんです」
「なんのためにですか」
「もちろん研究ですよ。ただ、いまは手が離せないので助手が必要なんです」
「僕が助手、ですか。それは、どうして」
「それなりに優秀で、あなたがお願いしてきたからじゃないですか」
「つまり」
「ええ、私があなたの上司になるということです」
白石の顔がほころんで、緊張していた肩がゆっくりと下がっていった。
「それで、冨永さんのことは大丈夫なんですよね」
「ええ、手出しはさせないようにします」
私が手を差し出すと、白石は少し驚いたあとに、手を握ってきた。
「じゃあ、すぐに調べ物を始めますね。メスのラットをオメガにして観察する、でいいんですよね。あと、正しいデータを取るために、ラブロマンスエキスの詳細なデータをもらえますか」
彼は当たり前のようにそう言った。




