第16話『要求』
「沙知さん、ここ間違っているわ」
指摘された内容は初歩的なものだった。軽く謝り、椅子に深く腰掛けた。肩を回すと凝り固まっていた筋肉に連動して骨の隙間が鳴き声を上げた。
管理者という名の緩衝材が現れてから、計画の進捗は大幅に遅れてしまった。冨永という人間はクジラや亀に張り付く藤壺のように、私たちの体力を徐々に蝕んでいく。さらに深く皮膚に食い込み、行動に制限を与え、やがて耐えきれなくなった私たちが藻掻いて、嘘をこぼしてしまうのを待っている。このように、思考を固定すること自体が目的かも知れない。息抜きが必要だった。研究室の隅にあるコーヒーマシンに水を注ぎ、コーヒーのカプセルを設置して、ボタンを押した。
「冨永さんが要求してくることって、実験には関係のないことばかりですよね」
独り言のように呟いて、博士の様子をうかがった。きれいな指先が資料をめくり、紙の音がしたかと思えば、勢いよくキーボードを叩いている。おそらく私の声は聞こえているのだろうけど、分かりきったことを言うなということなのだろう。
「博士、コーヒー要りますか」
「ええ、もらうわ。グァテマラをお願い」
今日の気分はグァテマラ。ほどよい酸味とチョコレートの深いコク、そして花のような甘い香りが特徴だ。マシンは振動し、セットしたカプセルに圧力をかける。そして絞り出された真っ黒な液体は湯気を立て、甘い香りが鼻の奥まで届いた。張り詰めていた神経がほぐれていく。一息ついて、コーヒーを博士のいる机まで運び、差し出した。博士は「ありがとう」と言うと、コーヒーを口元に運び、目を瞑った。
「このコーヒーはね、火山の香りがついているの」
「火山ですか」
「そう。グァテマラにはね、火山がたくさんあって、その周辺には標高の高い森林やコーヒー農園が広がっているの」
博士は、香りを食べるように深呼吸した。
「そこに雨が降り、森林の葉っぱや苔を濡らして、それらは全部土に帰っていくの」
「甘い。チョコレートみたいな香りがします」
「産地によってオレンジやナッツの香りもするの。でも共通しているのは、豊かな森と火山性の土壌で育つことなのよ」
「それで、火山の香りってことですか」
「直接は感じ取れないけど、そこには香りが残っているのよ」
しばらく、無言のままコーヒーを飲んでいた。冨永の相手をするようになってから、こういう時間も減ってしまった。今日は研究所にいないから、ゆっくりできている。
「牧野の身体にあれから変化はありませんよね」
コーヒーを飲んでいた博士の手が止まった。
「性欲は強くなっているようだけど、抑制剤を打って落ち着いているそうよ。元々そういう人だったんでしょ」
「本能に素直というべきなのでしょうか。そのせいでいろいろありました」
牧野は素直なのだ。良くも悪くも目的に忠実で迷いがないし、深く考えることもない。そういう男だからこそ、性欲が向上しているという点が気になった。元々あった器官が改善される可能性は十分にあると考えられた。
「どうして、そんなことを聞くの」
手に持ったカップの中で、コーヒーの表面がわずかに揺れた。落ち着いてカップをテーブルに置いて、頭のモードを研究者に切り替える。目は見開いていないだろうか、手は震えていないだろうか。平然を装って答えた。
「その、男性がオメガに分化した際は、新しい器官が生成されますよね。逆に男性がアルファに分化した際にはなにがあるのだろうと気になっただけです」
「今のところは、動物実験とほぼ同じ結果ね。認知の改善やフェロモン感染については、人間特有の反応が出ているけれど」
「女性がアルファやオメガに分化した際も同じなのでしょうか」
「同じでしょうね。なにか気になることがあるのかしら」
博士が何かを探っているように感じるのは、研究や目的に反したことを考えているせいだろうか。
「いえ、その。女性の分化はまだ試していないと思っただけです」
「いまは被験者になる人物が確保できないの」
「九条様にお願いすればなんとかなりませんか」
「借りを作りたくないわ。それに、時間がないわ。あまり時間をかけすぎると、フェロモン感染のことが露呈してしまうわ。そうなると、私たちの計画が修正不可能になってしまう。それだけは避けないと」
「そうですね。少子化の改善が私たちのやるべき使命ですよね」
私の優先順位は決まっていたはずだ。人類の救済。元カレへの復讐もその計画の一端に過ぎなかった。改めて考えれば、復讐は救済とは関係ないはずなのに、なぜか違和感を覚えなかった。牧野への復讐は心から願っていたことの一つだったはずなのに、いま抱えている気持ちはどうしてこんなにも博士に話せないのか分からなかった。
「沙知さん、私たちならできると信じているわ。あと少し頑張りましょう」
「はい」
心の中に湧き上がった欲望を押さえつけるように私は強く頷いた。
「それで、実験の計画の話をしたいのだけれど、いいかしら」
「大丈夫です。休憩はおわりですね」
飲み終えたコーヒーカップの底に沈殿した黒い粉は、非日常的な時間を過ごした残滓のように見えた。名残惜しさを捨てるように、カップを机の上においた。
「直面している問題は冨永ね。今後のことを考えると、どうにかする必要があるわね」
「あの人は実利で動く人ですから、この研究から離れることはないでしょうね」
昼夜を問わず研究所を訪れ、私たちに注文を押し付けてくる。身体が変化した人間がどのくらいの割合で増え、病院を訪問するか。病院を訪れた際にどれほど利益が出るか計算しろだの。関係のないようなことも押し付けてきて迷惑をしている。
「この研究以外に目を向けるように仕向ける必要があるわね」
「いまから、九条様の望む薬でも作りますか」
「ふふ、そんなことはしないわ。人身御供を仕立て上げるのよ」
冗談交じりに叩いた軽口は少しばかり博士の機嫌を良くしたように見えた。
「一体、だれをですか」
「ほら、あの殴られていた男よ」
「白石をですか。たしかに、冨永にとってはすでに害悪認定されてますね。でも、一体どうするつもりなんですか」
神話や伝承で大蛇に捧げる生贄は、美しい村娘と相場が決まっている。よくあるフィクションでは口減らしとなった人物を捧げて怒りを買うことがあるが、大丈夫だろうか。いや、白石なら大丈夫か。
「少し変わった倫理観の持ち主ですから、きっと彼は正義感に駆られて告発してしまうのよ。この研究所で行われている非人道的な実験とその被害者である高松のことをね」
「彼にそんな度胸がありますか」
「知らないわよ。でも、頻繁に高松に会っているみたいだし、好都合じゃないかしら」
そう口にしたあと、私は彼を蹴ったことを思い出した。アイツならやりかねない。あんな目にあって私に減らず口を叩けるやつなのだ。
「雑誌やテレビ局に情報を渡すってことですよね」
「都市伝説を扱っているようなオカルト雑誌が良いわね。ゴシップ誌でもいいんじゃないかしら」
「そんな雑な」
「男に子宮ができたなんて、そんな記事を扱うのはそういうところだけよ」
「それじゃあ、私たちの研究がオカルトみたいじゃないですか」
「天才って誰も成し得ていないことを成すから名乗れるものなのよ。人類が納得するまでそれはオカルトと大差ないわ」
「たしかに」
感嘆の声が漏れてしまった。博士には、都市伝説すら本当になってしまうような説得力がある。証明するまで続けた人間こそが、歴史に天才と名付けられるのだろう。
「情報の提供は博士がやりますか」
「ええ、一週間後に送るようにするわ。ちゃんと白石がデータにアクセスしたように偽装してね」
「冨永は気がついてくれるでしょうか」
「気がつくでしょうね。九条家に関連する企業の不祥事に気がつかないわけがないわ。どんな小さなことであれ、コントロールしようとするはずよ」
私は博士ほど九条様とのやり取りを行ってはいないから、九条家というものが強大な力を持っていることくらいしか分かっていない。むしろ、冨永の振る舞いをみてやっと実感できたと言ってもいい。私とは別の常識を持っているというのが正しいのだろう。
「私たちは疑われないでしょうか」
「可能性はあるでしょうけど、確実な証拠と実利を出せている間は大丈夫でしょう」
「調査の手が入ったときのために、いくつか準備しておきますね」
あの暴力が私たちに向くことだけはなんとしても避けたかった。性差による身体的な特性は覆しようがないのだから、身を守るすべは必要だ。「博士ならどうやって対策をするか」と思考をトレースするのが解決策なのだろう。
「そうしてくれると助かるわ」
「私、タコなので得意なんです」
博士は首をかしげたが、すぐに次の議案の話を始めた。




