第15話『救済』
食事の時間に再会した白石は、随分と印象が変わっていた。
ぶどうのような鮮やかな紫色が頬に浮かんでいた。
目元は赤く染まっていて、顔全体がキャンバスになって前衛的なアートを表現しているようだった。芸術でないなら、ずいぶん熱心に余計なことをしたらしい。
「それで、その顔はどうしたんですか」
「ちょっと、ありまして」
「かなりひどい目にあっている。暴力を受けた跡だ」
目の前にいる男は腰を下ろして、壁にもたれかかった。膝を抱える腕のあたりで、白衣にはきつい折り目がついていた。
「察するに、余計なことを言ったんじゃないか」
「ぼくと、高松さんはなにが違うんでしょうか」
なにが違うかと言えば全部が違う。
不自由なモルモットとその研究者の立ち位置は覆しようのない事実である。
どうやら白石にとっては違うようだ。口を開いたものの、言葉は出てこなかった。
「所詮、ぼくもこの研究所に囚われていて、当たり前のことすらもできない」
「私に愚痴を言いに来たのか。都合のいい話だ」
「違うんです。ただ、あなたのためを思って言ったことがねじ伏せられてしまったんです」
「私のために、なにをした」
「ただ、言っただけなんです。人道的な扱いをするようにと言っただけなのに」
「なるほど、その結果がその痣というわけですか」
「誰も止めなかった。この結果が当たり前であるかのように、小泉博士も、海野博士もただ見ていただけなんです」
急に吐き気が湧き上がった。私の身体を弄くり回した小泉と海野が、ただ遠くから見て楽しんでいる姿が頭に浮かんだ。悪趣味さとぶつけようのない怒りを吐き出すようにえずいてしまった。白石はそんな私の様子を、表情を変えずに見ていた。
「……大丈夫ですか」
「ああ、そうだな。いまは君ほどじゃないかもしれないですね」
深呼吸をして、呼吸を整えた。
「それで、なにがあったんです」
白石は自分になにがあったかを話してくれた。冨永という男に道徳を説いたところ、一方的に殴られたという。話し合う余地すらなかったという。この施設がなにによって支配されているか、その輪郭がうっすらと掴めたような気がした。
「君は次になにかミスをしたり、意にそぐわない行動を取ったりすると消されるだろう」
「消される? ぼくが」
「良くて私と同じように人体実験の道具になるだけだ。理解していなかったのか、おめでたい」
「人体実験されるんですか」
白石は自分の頬に手を当てた。指先があざに触れると、わずかに顔をしかめた。
「考えてみてくださいよ、明らかに異常な環境で、人道に反する邪悪な人体実験をしているような場所ですよ。世間一般の常識が通じるはずもない。君は紛争地帯に行って、プラカードを掲げ戦争をやめましょうと叫んでいる馬鹿なヤツなんですよ」
「いや、でも。僕がいなくなれば家族や友達が心配するはずだ」
「事故が起きた。突然、失踪した。なんとでも言い訳は立つ。私もそうなっているはずだ」
「じゃあ、ぼくはどうしたらいいんですか」
「簡単だ。やつらの言うとおりに働けばいい。今までどおり、ただ実験を繰り返す。私が泣き叫ぼうが、実験動物のように扱い、変化した数字だけで私を処理すればいい」
「そんなこと、できるわけない。高松さんは悪くない」
強い言葉を吐き出すと、白石は顔を覆い、膝に額を押しつけた。
パレットに並んでいた色が、窪みの境界を越えて混ざり合っていく。赤も、灰色も、黒も、混じり合えば元の色には戻らない。
目の前で白石が泣き崩れる姿はそんな情景を思い起こさせた。汚れてしまった色をもとに戻すことはできない。だが、使い道を見出すことはできる。一本の線を引いてしまえばいい。
白石は私を助けようとして傷ついた。それなのに、私はまた、この男に助けを求めようとしている。
「白石さん。どうか私を救ってくれないか」
ささやかに祈るように呟いた。
「救う? ぼくには無理です。無力だということに気が付きました」
「君は強い人間だ。暴力を受けた後でも、屈しない強い心を持っている」
白石はゆっくりと立ち上がると、白衣の袖で顔を拭いた。涙と少しの血の色が滲んでいる。うかがうような足取りで私のいるほうへ歩き進み、強化ガラスに手のひらをついた。
「君にしかできないことを頼みたいんだ」
「僕にしかできないことって」
息を呑んで、喉を濡らしたあと、白石に近づいていく。なんの躊躇いもなかった。必要なことは、逃げ道を作ることだった。彼にとっても、私にとってもだ。ガラスにぴったりと張り付いている白石の手のひらに私の手を重ねたが、ただ冷たいだけだった。お互いの視線が手のひらから上へ移り、初めて顔をちゃんと見られたような気がした。
「ここから、脱走させてほしい」
「そ、それは、無理ですよ。いったい、どうやって」
「いいのか、このままで。君も、私も終わるぞ」
「……終わる」
「すでに、冨永には危険人物とみなされている。状況次第でひどい目に遭わされるだろう。そうなった時、誰も君のことを助けてはくれない。同僚も、小泉も、海野もだ」
目が泳いでいた。彼の思考と同調しているようで、気持ちが手に取るように分かった。この先、自分がどうなっていくのか。どのように扱われ、最後にはどうなってしまうのか。きっと、そんなことを想像しているのだろう。
「わかるだろ。もう、逃げるしかないんだ」
「で、でも。ぼくにはどうしたらいいか」
「私に考えがある。大丈夫だ、信じてくれ」
「本当に?」
「大丈夫だ、私が君を救って見せる」
白石はすぐには答えなかった。ガラスに当てていた手を下ろし、しばらく俯いていた。
「……また、殴られるかもしれません」
「そうだな」
「それでも——」
白石は私を見た。
「僕は、何をするべきですか」




