第13話『看守』
九条様との話し合いが終わってから、すぐに承認は下りた。次の実験は二十万人が暮らす街に対して、一部の区画とはいえ秘密裏に薬剤を散布するのだ。区画の選定、散布装置の配備、事後の監視体制。書類だけでも骨が折れる。腕が十本あっても、さすがの私でも脳みそがパンクしてしまう。
そんな準備を進める中で、研究室には見慣れない男が現れた。
「本日より、こちらの研究の進行管理を担当させていただく、冨永と申します」
三十代半ばだろうか。細身で、シワひとつない黒いスーツを着ている。表情は好意的に見えるが、どこか冷たい感じがする。差し出された名刺を受け取って、机の上に置いた。
「東邦ファーマの方ですか」
私が尋ねると、冨永はメガネを押し上げた。
「九条家にお仕えしております」
一言だけで理解した。所属や肩書など不要だった。
「主人は先生方の研究には大変な関心と時間を割かれており、未来を担う重要な計画の一つと考えております。次の計画にも期待しているとのことです」
「ありがとうございます」
「ただ、主人は一つだけ不安に思われているのです。先生方は街ひとつをコントロールできるのか、ということについてです」
「といいますと」
「前例のない規模での散布実験。そこで、この私が参った次第です」
「九条様のご配慮に感謝いたします。どうぞよろしくお願いします」
つまり、冨永は監視役だ。小判鮫のように私たちに張り付き、情報を掠め取り、行動を制限するつもりなのだ。
「して、実験の計画はどこまで進んでいますか」
「候補地の選定は完了しています。散布装置についても、実験で使っているもので問題ないはずです」
「小泉博士、重要なことが決まっていないようですね」
「重要な?」
「次はどの臓器を与えるのか、ということです」
私は息を呑んだ。冨永にとってはごく当たり前の問いが、鋭いナイフとなって目の前に突き立てられた。
「生殖機能よ」
冨永は首を傾げた。目つきが鋭くなり、博士へ刺すような視線を送っている。
「小泉先生、まさか街中の人間に子宮を与えるつもりですか?」
「いいえ。男性にアルファ、女性にオメガを与えるわ」
「それはどういうことですか」
「簡単に言うと、生殖能力の若返りの実験よ」
私は冨永を見て、小さく頷いてみせた。
博士が何を言い出したのかは分からない。だが、ここで否定するわけにはいかなかった。
「若い体の生殖能力は強い。そして老いとともに生殖機能も衰えていくわ。逆に言えば、生殖機能が回復すれば肉体もそれに引きずられる」
「本当にそんなことが可能なのですか」
「冨永さん。前回の実験結果にもあるとおり、アルファの性質を投入された被験体、牧野には明らかな肉体的活性化が記録されています」
「確かに、生殖機能に関しては十代と変わらない数値を記録していますね」
残念ながら、牧野は元々そういう男なのだ。
「その拡大実験を、この街の規模で実施するのよ」
「主人の年齢でも可能なのですか」
「それを証明するための実験よ」
冨永は神妙そうに頷いた。
「他に懸念点は?」
有無を言わせない言葉の強さが博士にはあった。私ですら、本当にあるのかもしれないと思ってしまった。
「いえ、ありません。引き続きよろしくお願いします」
そう言い残し、一礼したあと、冨永は研究室を出て行った。扉が閉まり、一呼吸置いたあとに私は口を開いた。
「博士。あんな説明で通ったんですか」
「通ったでしょ」
「第二性は遺伝子と本人の資質による影響が大きいです。意図してアルファやオメガになることは不可能です」
「そうね」
博士はデスクの上で、書類の束をめくり始めた。
「いまはできないわ」
「いまはってどういうことですか」
「分化の方向を決める要因が特定できれば、制御は可能になるかも知れない。まだわからないけど、可能性はあるわね」
「その可能性はどのくらいですか」
「そこは研究してみないとわからないわ」
博士は資料を見たままだ。博士の指先がページを捲る音だけが続いている。
女性がオメガになる。
その言葉が、頭の中で何かと結びついたような気がした。オメガは妊娠する側だ。新しく作られる器官は新品に近い状態だ。高松の身体で確認したとおりだ。
もし、女性がオメガに分化した場合、既存の子宮はどうなるのか。若返るのか。或いは、機能が上書きされるのか。私は自分の腹のあたりを、無意識に押さえていた。
淋菌と梅毒。治療は済んでいる。ただ、二度の感染で妊娠は難しい。医師からそう説明されたのは二十四のときだった。もしも。
「沙知さん」
顔を上げると博士がこちらを見ていた。
「抑制剤、そろそろ切れる頃じゃないかしら」
「あ、はい。明日にでも打ちます」
「いま打ちなさい」
博士の声は静かだった。
「分化してしまったら、研究が止まるわ」
「……そうですね」
すぐにロッカーから抑制剤を取り出すと身体に打った。小さな針が皮膚を突き破り、溶液が入り込んでくる。もしも、抑制剤を打ち込まなければ、私はどうなっていたのだろうか。そんな疑問が頭の中をよぎった。




