第12話『同罪』
いまも白い部屋の中にいた。一つ違うのは、眼前に部屋を覆うほどの透明な板があることだ。光の加減で、無造作に伸びた髪の私の姿が映る。目元には、沈み込むような青いクマが浮かんでいた。生活には不自由していない。食事も運ばれてくるし、ベッドもトイレもシャワーもあった。24時間監視される不自由のない暮らしだった。
あの実験から何日経ったのか、正確には分からない。体感では、一ヶ月弱だと思われる。突如、股下からの出血があり、自らの身体が本当に変化してしまったのだという事実を突きつけられたからだ。
それを体験した日。内股を伝う温かい血液が病衣を黒く染めた。血を見た瞬間はなにが起きたのか分からなかった。大腸の損傷、或いはもっと重篤な病気を患ってしまったのだと思いたかった。いや、そうであってほしかった。
トイレットペーパーで拭き取り、押さえても時間が経つと滲んでくる。なぜか涙が止まらなかった。
すぐに研究員らしき人間がやってきて、私を取り押さえて検査を始めた。私を取り囲んだ人間たちの顔は興奮と驚きに包まれていて、時折、「小泉博士は天才だ」と称賛の声を送っていた。私は抵抗する気力も失せ、それを受け入れた。最も屈辱的だったのは、生理用品の使い方の説明を受けたときだった。
牧野とはあれから会っていない。どうなったのかは知る由もないが、ふとあの二日間のことを考える日が増えたような気がする。あの苦しんで唸っていた牧野から濃く漂っていた、いままでに嗅いだことのなかった心地の良い匂い。それが脳内に染み付いていた。
花の香りとも、果実の匂いとも異なるが、あの記憶を辿っているときは妙に安心した。先程まで考えていた苦しいことも和らいでしまう。足の指が鍵盤を押すように動き回り、神経はバイオリンの弦のようにピンと張ってしまう。少しの刺激で私は鳴いてしまうのだろう。
なぜ、こんな身体になってしまったのか。直接的な原因は小泉美子とあの助手のせいだ。元恋人というだけで、このような不条理に見舞われる理由があるとは到底思えなかった。考えるほど頭は重くなり、重さに耐えきれなくなると眠る。そういう繰り返しで過ごしていた。
食事は一日に数回届けられる。届けるのは毎回別の人間で、そのほとんどとは言葉を交わさない。唯一こんな私に話しかけてくれたのは、白石という男だった。白石は私よりも年下だということ、医者の資格を持っていることを話してくれた。私の身体に起きた変化を悲しみ、人道的ではないと憤慨していた。
同情心からかは分からないが、いろいろなことを教えてくれた。たとえば、ここが東邦ファーマという製薬会社の秘密研究施設であること、私の身体には監視用のチップが埋め込まれていること、そして、私に投薬された薬「ラブロマンスエキス」がどのようなものなのか。
ラブロマンスエキスは若返りの秘薬を開発する研究の一環として作られた新薬で、人間に第二の性別を与えるというものだった。そのせいで、私の身体はオメガと呼ばれる女性機能を持つ身体となり、苦痛を味わわされている。
知れば知るほど腹が立つ。この状況にも、「ラブロマンスエキス」というセンスのない薬の名前にすらもだ。
突然、ベルの音が鳴り、空気が震えた。鍵が重たい音を立てたあと、扉が開いた。規則正しく床を叩く足音とともに、白石が目の前に現れた。その手にはお盆を持っている。壁についている宅配ボックスくらいの扉を開け、お盆を置いた。すると、お盆は機械によって自動的に壁の中を通り、この部屋まで運ばれてきた。いつもどおりの病院食といくつかの薬だった。
「高松さん、調子どうですか」
「変わらないですよ」
「そうですか」
いつも安心させるような声で、相槌を打ってくる。白石は本当に私のことを心配している様子に見える。
「いつ、ここから出られるんですか」
「それは分からないです」
「そうですよね。出す気なんてありませんよね」
「いや、実験が終われば出られると思いますよ」
「励まそうとしてくれてるんですか」
「はい。最近の高松さんは、状態が安定していませんので、元気づけられないかと思いまして」
白石は医者のように振る舞っているのが好きなのかもしれない。会うたびに体調を聞いて、半端な励ましをしてくれる。現にポケットから手帳とペンを取り出して、私の健康状態をメモしていた。
「で、これからも実験は続くんですか」
「続くと思いますね。研究者からすれば、高松さんの存在は貴重です。生物学だけではなく、あらゆる分野で興味を引く対象です」
「私はモルモット。そういうことですね」
「違います。こうなってしまったのは残念に思います。でも、あなたは人間じゃないですか。こんな扱いは間違っています」
「それを私に言っても意味がないだろ。偽善なら結構だ」
思わずため息が出た。その様子を見ていた白石は慌てたように口を開いた。
「上司に掛け合って人道に配慮した実験をお願いするつもりです」
「なあ、助けてはくれないのか」
「それは、僕の力では」
「なら、きみも同罪だろ」
きっぱりと言い放った。私は食事の載ったお盆を手に取り、食べ始めた。白石はうつむいたまま、なにも言わない。拳だけが固く握られていて、かすかに震えていた。
「食事くらい一人で取らせてくれないか。唯一の楽しみを邪魔されたくない」
子供のように固まってなにも言わない。まるで私が悪いことをしていると言いたいようだった。とんだお門違いだ。皿にあるスープをスプーンですくい上げると、ゆっくりと口に運んだ。スープをすする音と、スプーンが食器に当たる音が狭い部屋の中で反響する。
「ぼくはなにもしていない。あなたに親切に接している」
白石が静かに言った。
「なのに、なんで、ぼくが悪いみたいに言うんですか」
「白石さんもここの研究所の職員じゃないですか。だから同じ。そういうことです」
目の前にいる男は握り拳を太ももにぐりぐり押し付けている。そんな様子を見ても食事の味は一切変わらなかった。まずくはない。そういった味だ。




