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隣の景色  作者: のゆ
58/62

55話 隣の景色(漣)

 卒業式が終わったあとの芸術棟の裏は、式の余韻から切り離されたみたいにひっそりとしていた。

 正門の方からは、学生たちの声がかすかに聞こえてくる。

 けれど、ここまで来ると人影はなく、やわらかい風だけが校舎の隙間を抜けていた。

 

 蒼真(そうま)に呼び出されたとき、嫌な予感はしなかった。

 大学で会うのも最後だし、少し思い出話でもするんだろうと思っていた。

 けれど、目の前に立つ蒼真の声が少し震えているのを聞いて、少しだけ胸の奥がざわついた。


 思い出話をしている間、最初はただ懐かしかった。

 けれど、蒼真が笑うたびに、どこか泣きそうに見えた。


 少しずつ、胸のざわつきが大きくなっていく。


 そして――蒼真がスーツのポケットから何かを取り出した。


「あ、そうだ。これ……返すね」

 そう言って手のひらに置かれた、鍵。

 俺が渡した合鍵だった。


 返された瞬間、頭が真っ白になった。

 意味が分からなかった。


 いや――理解したくなかっただけですぐに分かった。

 ……ああ。この関係が終わるんだ、と思った。


 卒業を機に、蒼真は俺のそばから離れていくんだ。

 いつかは離れる時が来る。そう思ってきた、分かっていたはずなのに。

 こんな早く、卒業を区切りになんて。

 

 この先、友達ですら居られないのか……?

 

 胸が、痛い。

 

 蒼真の声が震えている。

「最後にさ……」


 最後。


 最後?


 最後って何だよ。

 胸が張り裂けそうになる。


 ふざけるな――俺はまだ離れたくない。


「最後に言わせて?」

 その声が、妙に弱くて。

 嫌な予感が、もう見ないふりのできないものになっていく。


 そして、次の言葉は……。

 

「……オレ、漣のことが好き」


 意味が、理解できない。

 確認したくて、でも怖くて。

 

 蒼真は涙を流しながら続けた。

「ずっと……たぶん、自分が思ってた以上に前から……大好きで……」


 それは親友として……?

 それとも――。

 どうして? いつから?

 

 問い返したいのに、声が出ない。

 俺が何も言えずにいると、蒼真は慌てたように続けた。

 

「あ! 返事はさ、いらないから! ほんと、伝えたかっただけで……」


 涙を拭いながら笑おうとしている蒼真を見て、抑えていたものが全部、崩れた。


 気づいたら、返事をするより先に体が動いていた。


 蒼真をぎゅっと、強く抱きしめる。


「……俺も」


 声が、震える。


「ずっとずっと、蒼真が好きだった……!」


 言葉にした瞬間、何年分もの抑え込んできた感情が涙と共に溢れ出す。


 抱きしめたまま、離せない。

 泣きながら、必死に伝える。


「蒼真が好きで好きで、離れたくなかった。この関係を壊したくなかったから……言えなかった……!」


 蒼真の肩が、小さく揺れる。

 それから、ためらうように背中へ腕が回された。

 その腕は少し震えていたけれど、確かに俺を抱きしめ返してくれていた。


 灰色に沈んでいた景色に、少しずつ色が戻っていく。


 抱きしめたまま、しばらく動けなかった。

 ようやく少しだけ腕の力を緩める。


 ゆっくり離れて、近すぎる距離で見つめ合う。


 それから、蒼真に聞かれるまま、何年も前から好きだったことを話した。

 言えば今の関係が壊れると思って、隠し通すつもりだったことも。

 一度話し始めたら、今まで心にしまっていたものが止められなかった。


 蒼真も、気持ちに気付いてから同じように怖かったのだと知った。

 この関係を壊したくなくて、それでも今日言わなければ一生言えない気がしたと言ってくれた。


 ずっと、俺だけがこの距離を守っているつもりでいた。

 でも蒼真も、同じ場所で迷っていた。

 そして今日、蒼真が俺たちをそこから連れ出してくれた。

 

 もう、蒼真への気持ちを隠さなくていい。


「ありがとう。……これからは、蒼真を好きだってこと我慢しない」

 

 蒼真は、涙の残った目で嬉しそうに笑った。

「オレも……漣に好きって、いっぱい言う」

 

 少しして、蒼真が口を開いた。

「……あのさ」

「……うん」

「オレ、勢いで言ったわけじゃないからね。ずっと考えてて……真剣に言ってるから!」

「……勢い、なんて思ってない」

 

 蒼真が少し困ったように視線を泳がせた。

「その……返事、もらえたのは……めちゃくちゃうれしいんだけど……」

 言葉を探すみたいに、一度息を吸って続けた。

「付き合うって、具体的にどうする? ……だってさ! 親友から急に“恋人です”ってなって、どうすればいいのか分かんない……かも」


 思わず目を見開いた。

 こんな時まで蒼真らしくて、張り詰めていたものが少しだけほどけた。

「……変わらないと思う」

「え」

「今までみたいに一緒に飯食って、好きな時に家に泊まって、つらいとき支え合ったりして……」

 今までふたりで大事にしてきたものを、壊さずに続けたかった。

 

 蒼真が目を丸くして言う。

「じゃあ……今までしてきたこと、ほとんど恋人じゃん」

「そう、かも。ただ、これからは――好きな時に“好き”って言っていいし、もっと甘えてもいいし、離れなくていい」


 これからのことを考えると、嬉しくて涙が出そうになる。

 じわっと目が潤む。

 

 蒼真が目を逸らして慌て始める。

「待って。……な、なんか、漣、急に彼氏っぽいこと言うじゃん。びっくりした! 心が追いつかないんだけど……!」

「……は? このタイミングでそういうこと言うか?」

 

 俺がそう言うと、蒼真はいつもの笑顔を見せた。

 その顔を見て、俺も小さく笑ってしまう。


 これだけはちゃんと伝えたかった。

 

「蒼真、俺を好きになってくれてありがとう」


 蒼真が笑顔で言う。

「漣も。ずっと好きでいてくれてありがとう」


 その言葉だけで、また目の奥が熱くなる。

 

 蒼真が、少し迷うように視線を落とした。

「漣……手、繋いでもいい?」

「うん」

 

 向かい合ったまま、そっと両手を伸ばす。

 指先が触れて、ゆっくりと絡まった。

 ぎこちないけど、離れない。

 

 蒼真の手が、俺の手の中で少し震えていた。

 その震えごと包むように、指にそっと力を込める。

 繋いだ手から、じんわり熱が広がっていく。

 その温かさが信じられないくらい愛おしくて、泣きそうなくらい幸せだった。


 目が合うと、どちらからともなく照れたように笑ってしまった。


 蒼真が俺を好きになってくれたなんて、今でも信じられない。

 それでも、繋いだ手の温度だけは確かだった。

 その温度が、親友だった距離に新しい名前がついたのだと教えてくれた。

 もう隣にいることを諦めなくていい。

 

 そう思いながら、繋いだ手をもう一度、そっと握り返した。

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