54話 隣の景色(蒼真)
芸術棟の裏は、思ったより静かだった。
卒業式が終わったばかりなのに、ここには誰もいない。
着慣れないスーツの襟元が少しだけ苦しい。
目の前にいる漣も黒いスーツ姿で、いつもより大人びて見えた。
漣のスーツ姿は何度か見たことがあるはずなのに、今日はやけに目が離せなかった。
「……ごめん、呼び出して」
そう言った自分の声が、少しだけ震えているのが分かる。
漣はいつも通り落ち着いた顔で立っていた。
「……どうした?」
その一言だけで、胸がぎゅっと苦しくなる。
漣のこういう落ち着いたところが、ずっと好きだった。
「帰る前に、漣と話したくて」
ふたりで少し、思い出話をした。
「覚えてる? 大学で初めて一緒の授業受けた日のこと」
「……蒼真が席を間違えた日?」
「そうそう。あれは漣が分かりづらい場所に座ってたのが悪い!」
「俺のせいかよ」
「だって漣、たまにこっち見ながら笑ってくるし。オレまで笑いそうになって、教授の話全然入ってこなかったもん」
他にも、出会った時のこと。高校の頃、初めて一緒に美術館へ行った時のこと。
一緒の大学に入ろうって決めた時のこと。受験の時、お互いに励まし合ったこと。
初めて一緒に学食で飯を食った日のこと。
漣が無理をして、オレが放っておけなくて泊まった夜のこと。
ひとつ話すたびに、ああ、楽しかったな、全部、大事だったなって思う。
漣との思い出は多すぎて、少し話したくらいじゃとても足りなかった。
「いろんなことあったけど、今では漣の部屋で『おかえり』って言ってるんだもん。なんか不思議」
それで――笑っていられるうちに、ポケットに手を入れた。
これ以上話すと泣いてしまいそうだったから。
「あ、そうだ。これ……」
小さな金属音。
鍵を漣の手のひらに乗せる。
漣がくれた合鍵を返した。
「……返すね」
漣の表情が、一瞬だけ固まった気がした。
本当は、返したくない。
せっかく渡してくれた居場所を返すのは胸が痛む。
でも、これは必要なこと。
これを持ったまま、好きだって伝えるのは、違う。
漣の優しさに甘えたまま、気持ちまで聞いてほしいなんて言えない。
オレはもう、親友っていう立場には甘えない。
この先、オレたちはそれぞれの道に進む。
漣の人生を、これ以上縛る資格はない。
「最後にさ……」
声が、うまく出ない。喉が、熱い。
「最後に言わせて?」
漣は黙ったままだった。
あまり感情を表に出さない漣が、泣きそうな顔をしている。
そんな顔をさせたかったわけじゃない。
漣の表情を見た瞬間、堪えていたものが一気に溢れた。
「……オレ、漣のことが好き」
涙が、ぽろっと落ちる。
止まらない。
「ずっと……たぶん、自分で思ってた以上に前から……大好きで……」
笑おうとする。大丈夫なふりをする。
「あ! 返事はさ、いらないから! ほんと、伝えたかっただけで……」
涙を拭って、無理やり口角を上げる。
でも、拭っても拭っても涙は止まらなかった。
ちゃんと笑顔で終わらせなきゃいけないのに。
顔を上げようとした瞬間。
視界が、急に近くなった。
漣……なんで? なんでオレを抱きしめてるの。
漣の声が、震えてる。
「俺も……ずっとずっと、蒼真が好きだった……!」
どういう意味……?
漣が……オレを好きだった……?
「蒼真が好きで好きで、離れたくなかった。この関係を壊したくなかったから……言えなかった……!」
漣の声は震えていて、抱きしめる腕にも力がこもっていた。
顔が見えなくても、泣いているんだと分かった。
苦しそうに、でも漣の気持ちが痛いくらい伝わってくる。
しばらくして漣の腕が、少しだけ緩む。
それでもまだ、離れきらない距離。
漣の顔が近い。
泣いたせいで潤んだ目と、濡れた睫毛から視線を逸らせなかった。
見つめ合って、数秒。
時間がやけにゆっくり流れる。
漣もオレを好きだったなんて、すぐには受け止めきれなかった。
でも、漣の言葉も涙も嘘だとは思えなかった。
確かめたくて、気づけば声がこぼれていた。
「漣……いつから、オレのこと……」
漣は、一瞬だけ視線を逸らす。
困ったように、ほんの少し笑った。
「……何年も前から」
その答えは、あまりにも静かで、ずっと大事にしまっていたものをそっと渡されたみたいに温かかった。
思わず目を見開く。
「え……!」
「高校に入った頃には、もう」
淡々としているのに、声の奥が少し震えていた。
「大学に入ってからも……蒼真のこと、想わない日はなかった」
オレは、言葉を失ったまま漣を見る。
そんなはず、ない。だって、漣は全然そんな素振り見せなかった。
「……全然、気づかなかった」
漣は、また小さく笑った。
「だろうな」
どこか諦めたようで、でも優しい笑顔で続けた。
「最後まで隠し通すつもりだったから。……言ったら、関係ごと壊れると思ってた」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。
漣も関係を壊したくないって、同じ気持ちだったんだ。
いや、きっとオレが思っている以上に長い時間、ずっとこの関係を守ろうとしてくれていたんだ。
漣は続けた。
「蒼真と親友でいられることが、大切で好きだったから」
いちばん近くにいたのに、どうして気づかなかったんだろう。
そう思った瞬間、これまで見てきた漣の表情が、いくつも頭をよぎった。
オレのくだらない話にも、いつも笑って付き合ってくれていた漣。
恋愛話を聞いても、何でもない顔で相槌を打ってくれた漣。
あの時も、あの時も。
漣はずっとひとりで、言えない気持ちを抱えていたのかな。
「……オレもさ、漣との関係が壊れたらどうしよう、って怖かった。……でも、今日言わなかったら一生言えない気がして」
オレを抱きしめている漣の腕が、ほんの少しだけ強くなる。
漣は困ったように、でも覚悟のある目で、まっすぐ見つめて言った。
「ありがとう。……これからは、蒼真を好きだってこと我慢しない」
その言葉だけで、胸がいっぱいになった。
ずっと不安だった今日が、今はもう、終わりじゃなくて始まりなんだと思えた。
これからも漣の隣にいられる。
今度は、好きだと言っていい距離で。




