51話 扉の向こう(漣)
卒業制作が追い込みに入って、気づけば一月が終わろうとしていた。
蒼真は春から、小学校の教師として働くことが決まった。
それに比べて俺のほうは、まだ先のことが何も見えていなかった。
合鍵を渡してから、蒼真は何度も家に来るようになった。
俺の部屋で課題や卒論を進めたり、夕飯を作りに来たり、特に用がなくても顔を出したり。
疲れて帰った時に「おかえり」って言われるだけで、胸の奥がふっとやわらかくなる。
今までも何度も泊まりに来ていたのに、鍵ひとつでこんなに感覚が変わるのかと実感する。
こういう時間が当たり前になったらいいのに、と少しだけ思う。
でも、一緒に住むなんてことはありえないって分かってる。
だから、せめてこれからも蒼真にとって安心できる場所でいたいと思った。
***
卒業制作展の準備で、展示室を行き来する日々が続いていた。
搬入作業の途中、俺が作品横のキャプション位置を直していると、九条教授が俺の作品の前で足を止めた。
しばらく黙って見つめたあと、教授はゆっくりこちらを振り向く。
「篠宮、最近何かあったのかしら?」
「……いえ、特には」
「そう? 前より一段と色がやわらかいの。空気がほどけたっていうか……入学した頃はもっと閉じていたのよ。綺麗だけど、誰にも触らせないみたいな絵だった」
思わず言葉に詰まる。
自分ではそこまで変わったつもりはなかった。
「……そう、ですか」
「ええ。生活が変わったのかしら~?」
教授が目を見てくる。
九条教授の観察眼はいつも鋭い。
言い当てられた気がして、視線を逸らした。
教授が思い出したように言う。
「そうだ。アンタに紹介したいヤツがいるの」
「紹介、ですか……?」
「たぶんアンタと気が合うと思うのよねェ。いいかしら?」
何のことかはよく分からなかったけれど、教授がこういう言い方をする時は大抵もう何かを決めている。
それ以上は聞かずに、小さく頷いた。
***
卒業制作展、初日。
会場には絵画だけでなく立体作品や映像作品も並んでいて、思っていたよりも人の気配があった。
来場者の足音や小さな話し声が、会場のあちこちから聞こえてくる。
壁に並ぶ作品たちの前を、来場者がゆっくり歩いていく。
自分の絵がそこにあるのを見ると、そわそわして落ち着かない。
卒業制作として描いたのは、大きな扉と、その向こうに差し込む光だった。
扉の周りには、これまで見てきた季節の色を重ねた。
いつもより大きなキャンバスに、今までの思い出や感謝を少しずつ重ねていったような絵になった。
最初からそう描こうと決めていたわけじゃない。
でも、完成して振り返ってみると、そこに残っていた光も色も空気感も、結局は蒼真と見てきた景色ばかりだった。
しばらくして、展示室の入り口から蒼真が入ってくるのが見えた。
蒼真は俺を見つけるとすぐに笑って駆け寄ってきた。
「漣!」
その顔を見るだけで少しだけ緊張がほどけた。
「来てくれたんだ」
「当たり前だろ! 絶対見たかったし」
そう言って、蒼真は俺の作品の前に立つ。
しばらく黙って見ていたあと、ゆっくり息を吐いた。
「……すごい」
「……」
「なんか……今までの漣がぎゅっと詰まってる感じがする。大きくて迫力ある絵なのに、優しくて……見てると、あったかい気持ちになる」
その言葉が、思っていた以上に嬉しかった。
「……ありがとう」
「やっぱ漣の絵、好き。漣と一緒に見られてよかった」
そんなふうにまっすぐ言われると、さすがに落ち着かない。
蒼真が嬉しそうに笑う。その顔が眩しくて、思わず視線を逸らした。
***
蒼真と展示室を見てまわっていると、悠月の作品の前に小さな人だかりができていた。
悠月の絵画作品のタイトルは、Rebirth。
大きなキャンバスに描かれていたのは、黒いドレスをまとい、細かな装飾が施された椅子に座る美しい人形だった。
閉じた瞼と静かな微笑みは、祈るようにも、眠っているようにも見える。
その人形に向かって差し出された手には、温かさや愛おしさが宿っているように感じた。
蒼真と人だかりの端に立って作品を見ていると、すぐ近くに悠月と九条教授がいることに気づいた。
九条教授は、しばらく何も言わずに作品を見つめていた。
やがて教授が口を開く。
「……悪くないわね」
「悪くない、は最高の褒め言葉ですか? それとも最低ですか?」
悠月がいつもの調子で返した。
九条教授は、呆れたように笑った。
「アンタ、相変わらず噛みつくわねェ」
「褒められるのは好きですけど、曖昧なのは嫌いなんです」
九条教授は作品から目を離さないまま、小さく息を吸った。
「本当に綺麗ね……心がこもってる」
「……」
「ヤダ……涙が出てくるじゃない……!」
あの厳しい九条教授の頬に、涙が伝っていた。
悠月の作品は、九条教授の心にも届いたらしい。
悠月は目を瞬かせて、それから少しだけ肩を落とした。
「……急に素直で気持ち悪いですよ、教授」
そう言いながらも、その顔には今まで見たことのないやわらかい笑みが浮かんでいた。
隣で蒼真が小さく言う。
「悠月くん、嬉しそうだね!」
「……そうだな」
悠月は、ずっと欲しかった言葉をようやくもらえたんだろうか。
その顔を見て、なんとなくこっちまでほっとした。
***
蒼真を見送ったあと、展示室に戻ると悠月がいた。
目が合った途端、こちらに向かってくる。
「篠宮!」
「……なに」
「ボクの連絡先を教えてあげてもいいよ」
相変わらず上から目線だ。普通に交換しようと言えばいいのに。
「俺はやり方分からないから、適当に交換しといて」
メッセージアプリを開いたスマホを渡すと、悠月は「しょうがないな!」と満足そうに受け取った。
悠月が俺のスマホを操作しながら、ふと手を止める。
「ねぇ篠宮。トーク一覧、二件しかないんだけど」
「だから何」
「こんなヤツ初めて見た……」
呆れたように言ってから、さらに画面を見る。
「蒼真は保護者くんでしょ? もう一件は篠宮家って……家族グループ?」
「そうだけど」
「あっ、そう……三件に増えることを光栄に思うことだね」
いちいち言い方に棘がある。
悠月はスマホを俺に戻しながら続けた。
「ボクの個展が決まったら真っ先に連絡してあげる」
「ああ、楽しみにしてる」
そう返すと、悠月は少しだけ意外そうな顔をした。
悠月のこの上から目線な態度を見る機会も、もう多くはないのかもしれない。
そう思うと、安堵とほんの少しの寂しさが混ざって、自然と笑みがこぼれた。
卒業が近い。
みんな少しずつ前に進んでいて、俺もその途中にいる。
展示室のざわめきの中で、自分の作品をもう一度見上げる。
ちゃんとここまで来たんだと、少しだけ思えた。




