50話 おかえり(蒼真)
十一月の肌寒い夜。
オレは、夕食の材料と、漣が好きなパンが入った袋を左手に下げて、漣の家の前まで来ていた。
漣から合鍵を渡されて、まだ二日。
早速使ってみようと思ったものの、いざドアの前に立つと足が止まってしまった。
「……勝手に来ていいって言われたけどさ」
右手の中の鍵を見つめる。
「緊張する!」
小声で言いながら、鍵を差し込む。
カチャ、と小さな音がして鍵が回った。
「……やば……ほんとに開くんだ」
当たり前なのに、変に感動してしまう。
ほんとに入っていいんだ。ほんとに、オレの手元にあるこの鍵で。
そっとドアを開ける。
中に入って、後ろ手にドアを閉め、鍵をかける。
部屋には誰もいなくて、明かりもついていない。
静かで少しひんやりしていた。
人の気配がない部屋に、自分だけが先に入っている。
それが妙に落ち着かなくて、でも少しだけ嬉しかった。
「漣、まだ大学かな……」
手探りで電気のスイッチを見つけて、部屋を明るくする。
漣が「勝手に入っていい」「蒼真だから渡した」って言ってくれたんだよな。
そう思った瞬間、急に胸の奥がそわそわした。
「……ほんとに信用されてるじゃん」
小さく独り言がこぼれる。
ふと、廊下の奥の部屋の少し開いているドアが目に入る。
「……開けっぱなしだぞー」
ドアを閉めようとして、少しだけ中が見えてしまった。
漣は、入っちゃダメなところはないって言ってたけど、勝手に見るのはやっぱり気が引ける。
それでも、目に入った光景に思わず足が止まった。
「わ……!」
壁や棚に、漣が描いた作品がずらりと並んでいた。
ちゃんと飾られているものもあれば、立てかけられたままのものもある。
完成した絵も、下書きみたいなものも、無造作にそこにあった。
「こんなに作品あったんだ……」
並んだ作品を目で追っているうちに、少しずつ気づいてしまう。
これは、春に一緒に見た桜並木に似てる。
こっちは去年行った旅行の湖と紅葉。
星が入ってるこの作品は、たぶんサークル活動を手伝ってもらった時の雰囲気。
もしかして。
いや、もしかしなくても――これ、ほとんどオレとの思い出だったりする?
漣の作品の中に、オレと過ごした時間がちゃんと残ってるみたいで、胸の奥がじんわり熱くなっていく。
「……ちょっと待って」
絵を見つめたまま、ひとりで混乱する。
もしかして……漣って、オレのことかなり好き?
いやいやいや。オレとしか出かけないってだけかもしれない。
たまたま題材にしやすかっただけかも。
……でも。
それでも嬉しかった。
たとえ勘違いでも、漣の中にオレとの思い出がこんなに残ってるんだと思うと、どうしようもなく嬉しい。
やっぱり漣が好きだ。
合鍵渡してくれたり、オレのこと思ってくれる理由は優しさとか友情だって分かってるのに。
漣がくれる全部が嬉しくてたまらない。
***
ひと通り作品を見たあと、オレはソファのいつもの場所に腰を下ろした。
「……落ち着かない」
スマホを見る。少しして、またソファに沈む。
「……漣、遅いなー」
テーブルの上には、描いてる途中らしいスケッチブックが置いてあった。
もしかしたら、ここにもオレとの思い出とかが描かれているのかもしれない。
そう思うと気になったけど、触るのはやめておく。
「勝手に触るのは良くないよな……」
ちらっとベッドを見る。
「……寝て待つのは絶対違う気がする」
結局、ソファに座ったまま落ち着かなく時間だけが過ぎていく。
時計の針の音が、いつもより大きく聞こえる。
「……ごはん作って待ってみるか」
そう呟いて立ち上がる。
漣が帰ってきた時に、少しでもほっとできるように。
***
キッチンで夕飯の準備を始めて三十分くらい経ったころだった。
ガチャ、とドアが開く音がした。
「……?」
玄関の方を見ると、帰ってきた漣が立っていた。
漣はオレを見ると、少しだけ目を瞬かせる。
「……蒼真、来てたんだ」
でも、嫌そうじゃない。
むしろ、少しだけ肩の力が抜けて口元がやわらいだように見えた。
少し照れくさいけど、言う。
「……合鍵、使ってみた」
「そっか」
「漣、おかえり」
「……ただいま」
漣が少し笑った。
その「ただいま」が、思っていたよりずっと胸に来た。
なんだこのやり取り。
むずがゆくて、くすぐったくて、嬉しくて頬が緩みそうになる。
漣がキッチンを覗き込む。
「何か作ってた?」
「うん! スープパスタ作ってる。すぐできるから待ってて」
そう言って、オレは慌ててキッチンに戻った。
***
しばらくして、湯気の立つ器を漣の前に運んで置いた。
「お待たせしました! きのこと大葉の和風スープパスタでございます!」
「……お店みたい」
「これ簡単でおいしいから最近よく作ってるんだよね。あ! 待って」
慌ててキッチンに戻り、皿に載せたパンを取ってくる。
「漣が好きなパンもあるよ。さぁ、召し上がれ!」
漣はパスタをひと口食べて、手が止まる。
「……おいしい」
「ほんと?!」
「これ、好き。毎日食べたい」
その言葉だけで、胸の中がぱっと明るくなった。
「よかったー! 余った材料置いとくから漣も作ってみて。あとでレシピ送る。でも毎日はダメ!」
漣はハマったらそればっか食べるタイプだから、放っておくと本当に毎日食べそうだ。
料理を見ながら漣が呟く。
「……俺でも作れるのかな」
「作れるよ! 簡単だから!」
それから、向かい合って一緒に食べ始めた。
漣は時々パンをちぎりながら、ゆっくりパスタを食べている。
口数は少ないけど食べる手は止まらない。
それだけで、本当に気に入ってくれたんだと分かった。
なんだか嬉しくて、つい口元が緩みそうになる。
部屋の中はいつもどおり静かで、フォークやスプーンが器に当たる音が響いた。
落ち着く空気のはずなのに、さっき見た絵のことが頭から離れなくて、どうにもそわそわする。
作品のことを聞きたい。
でも、あれが本当にオレとの思い出なのか確かめる勇気が出ない。
黙ったまま料理を口に運んでいると、漣が不思議そうにこっちを覗き込んだ。
「蒼真、どうした?」
「えっ?」
「なんか、いつもより静かだから」
図星だった。漣は、こういうところだけは妙に鋭い。
慌てて言葉を探す。全然違う話題でごまかすこともできた。でも、やっぱり少しだけ絵のことを聞いてみたかった。
「えっと……学園祭のときの漣の絵、良かったなーって急に思って」
「……ありがとう」
漣は少しだけ視線を落として、続ける。
「実は、一番気に入ってる」
「そう……なんだ」
漣が自分からそんなことを言うのは珍しい。それを聞けただけで、ちょっと嬉しかった。
漣は器を見たまま、ぽつりぽつりと話し始める。
「俺にとって、雨ってずっと特別だったけど……最近は、雨上がりのほうがいいなって思うようになった。……上手く言えないけど」
そう話す漣の横顔を見ていると、愛おしくて、少し苦しくなる。
こんなふうに思ったことを静かに話してくれる時の顔も。
俺が知らないところで考えていたことも。
少しずつ見せてもらえてる気がして、嬉しいのに切なかった。
その切なさの奥で、小さな不安が顔を出した。
漣も、いつか彼女とかできたりするのかな。
もしそうなったら、今みたいな表情も、オレがまだ見たことない表情も彼女に見せるんだろうか。
胸の奥がざわつく。
漣の表情も、優しさも、声も、触れた時の体温も絶対ほかの誰かに渡したくない。
ずっと隣にいたのはオレなのに。
親友って、一番近い立場みたいで一番曖昧だ。
近いようで、肝心なところには触れられない。
踏み越えたら全部壊れそうで、でも、このままでも苦しい。
もどかしい気持ちを押し込めて、なんとか笑顔を作る。
「大事なこと話してくれて、ありがと。……嬉しかった」
漣はこちらを見て一瞬だけ目を見開いて、それから少し照れたみたいに視線を逸らした。
「……別に大したことじゃない」
「オレにとっては大したことなの」
そう言って笑うと、漣はわずかに口元をゆるめた。
この部屋に、こうしていられること。
合鍵を渡されたこと。漣とふたりでごはん食べたり、いろんな話ができること。
その全部が嬉しい。
本当なら、それだけで十分すぎるはずだった。
なのに、まだ足りないと思ってしまう。
そんな自分が少しだけ怖かった。




