49話 これ、渡しとく(漣)
十一月四日。俺――篠宮 漣の誕生日だ。
その日は休日で、夜は蒼真と家で過ごすことになっていた。
蒼真に「誕生日、どう過ごしたい?」と聞かれて、俺は家でゆっくりしたいと答えた。
人の多い店に行くより、こうして二人で静かに過ごす方が落ち着く。
宅配で頼んだ夕飯の箱をテーブルに並べると、温かい料理の匂いが部屋に広がった。
蒼真が買ってきてくれた炭酸ジュースを、シャンパングラス代わりの透明なガラスのコップに注ぐ。
しゅわしゅわと小さな泡が上がるだけで、いつもの部屋が少しだけ特別に見えた。
テーブルに並ぶ料理を見ながら蒼真が言う。
「なんか、こういうのもいいね!」
蒼真は笑顔で俺のほうを見て、コップを持ち上げる。
「漣、誕生日おめでと。かんぱーい」
「……ありがと」
俺もコップを持ち上げる。
軽くぶつかる、乾いた音。
今年も蒼真が隣で祝ってくれる。
それだけで、胸の奥が静かに満たされる気がした。
蒼真と過ごす時間は静かで温かくて心地よかった。
***
食べ終わったあとは、ソファで並んでゆっくり過ごしていた。
蒼真はスマホをいじりながら、いつもの調子で言った。
「なー、今日も泊まっていい?」
もう半分、確認ですらない。
「……最初からそのつもりだったんだろ」
「バレた?」
蒼真が笑う。
俺も小さくため息まじりに笑った。
蒼真がこちらを向いたとき、左頬の下あたりに、切れたような赤い傷が見えた。
「……蒼真、それ」
「ん?」
気づいた瞬間、体が勝手に動いていた。
蒼真の顔をよく見ようと、思わず距離を詰める。
蒼真の家で何が起きるのか、俺は知っている。
だから、その傷が何を意味するのかも、すぐに分かった。
「またやられたのか……?」
一瞬だけ、蒼真の表情が止まる。
「あー、うん。でも大丈夫!」
少し間を置いて、苦笑する。
「……大丈夫じゃないか。家出る直前だったから、持ってくるつもりだったケーキぐちゃぐちゃになっちゃって。ごめん。何も用意できてない……」
泣きそうな顔で俯く蒼真を見て胸が締め付けられる。
ケーキなんか、どうだっていい。
そんなものより、自分のことを大事にしてほしかった。
蒼真はいつだって、自分の痛みを後回しにして笑う。
「そんなのいい……! 蒼真が来てくれただけで……」
そこまで言って、言葉が止まる。
何を言っても薄っぺらい言葉に思えて、その続きが言えない。
来てくれたことは本当に嬉しい。でも、こんな時に「嬉しい」なんて軽々しく言えなかった。
そんな言葉で蒼真の現実が変わるわけじゃない。
蒼真は、いつも通りみたいな顔で笑った。
「卒業してオレが働き始めたらさ、母さんにはこっそり引っ越ししてもらうつもりだし。もう少しの我慢かなーって」
卒業して? 働いてから? そんなの、まだまだ先だ。
それまでずっと、蒼真はいつ来るか分からない継父に怯えて暮らすのか?
この先、顔の傷ひとつで済む保証なんてどこにもないのに。
俺は無言のまま立ち上がって、引き出しを開ける。
引き出しの奥にしまっていた予備の鍵を取り出す。
鍵が金属音を立てて指先に乗る。
たぶん、ずっと前から考えていた。
もし蒼真が、帰りたくない夜を過ごすことになったら。
もしまた、俺が連絡を返せなくて心配させることがあったら。
俺にできることはないのか――せめて、帰る場所を一つ増やすことくらいならできるんじゃないかって。
でも、迷惑になるんじゃないかって踏み出せなかった。
「……蒼真」
「ん?」
何気なく顔を上げた蒼真の前に、小さな鍵を差し出す。
「これ、渡しとく」
一瞬、時間が止まったみたいだった。
蒼真は鍵とこちらを、何度も交互に見る。
「……え? なにこれ」
「ここの合鍵」
蒼真は、完全に固まっていた。
少しして急に慌て始める。
「……ちょっと待って?! それ、そんな軽く渡すやつじゃなくない?」
「軽くじゃない。蒼真だから、渡してる」
そう即答する。
あまりにも淡々とした言い方だったかもしれない。
蒼真が言葉を失っている。
俺は視線を少し逸らして続けた。
「俺、これから卒業制作で急に連絡取れなくなることあるし……前みたいに心配かけるのも嫌だし……蒼真が来たいとき、勝手に来ればいい」
少しの沈黙。
蒼真はしばらく鍵を見つめてから、信じられない、という顔で小さく笑った。
「……漣さ、オレのこと信用しすぎじゃない?」
「してる」
即答、二度目。
「家に入られて嫌な相手には渡さない」
そう伝えると、蒼真は目を逸らして呟くように言った。
「……重」
「今さら気づいた?」
そう言って、蒼真に鍵を渡す。
指先が、少しだけ触れた。
蒼真は鍵を手のひらに載せたまま、しばらく黙ったあと、ぽつりと呟く。
「……なくしたらどうしよ」
「なくすな」
「いや、責任重すぎでしょ!」
蒼真は急に落ち着かなくなって、鍵を見たり俺を見たりし始める。
「え、これってつまりさ……オレ、いつでも来ていいってことで……勝手に冷蔵庫開けてもよくて……漣が寝てても入ってよくて――」
「そうだけど」
「入っちゃダメなところとか、見ちゃダメなところとかないの?」
「別にない」
蒼真は、へへ……と少し照れたみたいに笑った。
その顔を見て、ようやく少しだけ息がつけた。
これで、少しでも蒼真が安全でいられるなら。
渡してよかった。もっと早く渡すべきだった。
蒼真は鍵をぎゅっと握りしめて、少しだけ真面目な声になる。
「……大切にする。ありがとう」
その言葉を聞いて、ようやく渡せたんだと実感した。
誕生日に何かをもらうより、蒼真が帰ってこられる場所を渡せたことの方が、俺にはずっと大事だった。




