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隣の景色  作者: のゆ
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47話 月夜の啓示(悠月)

 また、くだらない講評の時間が来た。

 作品が並ぶ静かな空間。

 油絵具と溶剤の匂いが混ざるこの教室の空気を、ボク――黒瀬 悠月(くろせ ゆづき)は嫌というほど知っている。

 

 ボクは前に出て、自分の作品の前に立った。

 後ろでは、同じ絵画専攻の学生たちが固唾をのんで見守っている。

 

 作品についての説明を終えると、教室の視線は自然と九条教授へ向いた。

 九条教授は癖が強くて、講評にはいつだって遠慮がない。

 しかも、的外れならまだしも、妙に的確な時があるから余計に腹が立つ。

 

 新作は、今までで一番完成度が高い自信作だった。

 構図、テーマ、視線の誘導。どこを取っても破綻はない。

 誰にも文句をつけられない作品に仕上げたつもりだった。

 

 九条教授は腕を組み、ゆっくりとボクの作品を眺めていた。

 キャンバスの端から端まで凝視して、それからようやく口を開く。

「圧があって鮮烈な色彩。計算された構図。……相変わらず、派手ねェ」

 

 それを聞いて、ボクは微笑んだ。

「ありがとうございます。目を引くって大事なので」

 

 九条教授は顎に指を添え、首を傾げた。

「あら、目を引くのと中身があるのは別よォ? アンタ自身が見えてこない」

 

 空気がピリッ、と張り詰めた。

 ボクは一歩前に出る。

「中身がないように見えますか?」

「中身がないとは言ってないわ。ただアンタ、全部分かっててやってるでしょう? “ウケる構図”も“売れる見せ方”も」

「努力の成果と言ってください」

「違うわ。保険よ」

 その言葉に、思わず目が細くなる。

「はい?」

「いい? 黒瀬。アンタはね、計算できすぎなのよ。構図も色も全部コントロールしてる。でもね、それは“うまい”だけ。転ばないように描いてるのよ」

「……悪いことですか? 売れる、評価されるって、プロになるなら必要でしょう」

 九条教授がゆっくり距離を詰める。

 長身が落とす影が、ボクの足元まで伸びた。

 反射的に半歩引きそうになって、踏みとどまる。

 

 すぐ目の前で、教授が静かに言う。

「必要よ。でも――アンタ、本当にそれで満足?」

「……満足してないように見えます?」

「見えるわね。アンタの絵、完成度は高い。でも、守りに入ってる」


 周囲がざわついた。

 ボクは口角を上げた。けれど、視線だけは鋭く教授を捉えた。

「評価は十分いただいてますけど?」

「評価が欲しいの? それとも“本物”になりたいの?」


 視線を逸らしたら負けだ。真正面から教授を睨み返す。

「教授の言う“本物”って、挑戦して失敗するほうが美しい、みたいな話ですか?」

「挑戦や失敗なんてどうでもいいのよ。本気で描きたいものを描けって言ってんのよ」

 

 数秒、睨み合う。


 笑って受け流せるはずだった。

 なのに、一番触れられたくないところを爪でなぞられたみたいに、胸の奥がざらついた。


 ボクはわざとらしく肩をすくめる。

「それは理論が破綻してます。感覚論で押し切らないでいただけますかぁ?」

「ほら、また話を逸らす。アンタ、逃げ方まで作品と同じで分かりやすいわねェ」

「……教授、ボクを分析するの好きですよね」

「好きよ。素材がいいから」

 教授は微笑んだまま続けた。

「アンタは化けるわ。でも今のままだと、ただの優等生」

 

 ただの優等生? このボクが?

 笑えているはずなのに、頬が少し引きつる。

 

 教授はまっすぐにボクを見て続けた。

「黒瀬。綺麗にまとめないで、アンタ自身を描きなさい。それができて初めて本物よ」


 ボクは眉をひそめる。

「それ誰得ですか?」

「アタシ得よ」

 教授はそう即答しながら、芝居がかった仕草で身体をくねらせた。

 ……気持ち悪いなぁ。

 

 教室のあちこちで、くすくすと笑いが漏れる。

 このやり取りが、いつの間にか講評の名物みたいに扱われていることくらい、ボクだって気付いている。

 

 話が通じない相手に、これ以上反論しても仕方ない。

 次こそは認めさせてやる。

 

「じゃあ次、覚悟していてください」

「上等よ。楽しみにしてるわ。……その代わり、中途半端だったら叩き潰すわよ?」

「望むところです」

 

 ボクはそう言い残して、講評の空気を振り切るように教室を出た。



 ***

 

 ――その夜。

 迎えの車を降りて、無駄に広い玄関を通る。

 家の中は静かで、磨かれた床に靴音だけがやけに響いた。

 こういう整いすぎた静けさも、今日は妙に癇に障った。

 

 自室には小さな間接照明だけが灯っていた。

 いつもどおり静かで、床にバッグを置く音がやけに大きく響いた気がした。

 椅子にどさりと座り、ため息をつく。

 

「あの教授、大っキライ……」


 たった一人の人間の評価なんて、気にすることじゃない。

 そう思っているのに、九条教授の言葉が頭から離れない。

 

『それは“うまい”だけ』


 はは。

 何が悪いの?


 何もかもくだらない。

 

 最近の篠宮(しのみや)は、また保護者くんにすぐ連れ出されるし。

 保護者くんは、休めとか、食べろとか、寝ろとか。篠宮の身体の心配ばかり。

 そんな干渉、邪魔なだけだと思うのに――篠宮は、あれを少しも嫌がっていないように見えた。

 “温度”なんて不要だ。ただただ深くまで沈めばよかったのに。


 ボクはポケットからスマホを取り出し、SNSを開いた。


 大量の“いいね”の通知。DM。展示の問い合わせ。

 ちゃんと評価されてる。

 ちゃんと結果だって出してる。

 

 DMの中に、見慣れたアカウント名がある。

 最近よくDMを送ってくる『m』という人。


 一度も返信したことはない。

 でも、ボクの作品をずいぶん気に入っているらしかった。

 DMを開くと、作品を投稿するたびに送られてきた感想が並んでいた。

 

『あなたが描く世界に私は何度も救われています』

『冷たさの奥にある熱に、どうしようもなく惹かれました』

『計算された美しさの中に底知れない孤独が滲んでいる気がして、目が離せません』


 ボクは、今のままで必要とされてる。


 ……なのに。


 机の上のスケッチブックを開く。

 けれど、鉛筆は動かなかった。

 描こうとすると、頭に浮かぶのは教授の言葉ばかり。


『今のままだと、ただの優等生』

『本気で描きたいものを描けって言ってんのよ』


 うるさい。


 ボクは描けてる。

 これまでも描いてきたし、これからだって描けるに決まってる。


 なのに――指先が、わずかに震えた。


 描きかけの人物の目を見つめる。

 ……これ、誰だっけ。


 ――これ、ボクが描きたいものじゃない。


 息が詰まる。スケッチブックから目を逸らした。

 

 胸の奥が、妙にざわついて気持ち悪い。

 悔しい。腹が立つ。

 ほんの少しだけ――怖い。


 もし本当に、ボクがただ上手いだけだったら?

 もし、ボク自身が全部“ニセモノ”だったら?


 そのまま床に座り込む。


「……最悪」

 小さく呟く。

 初めて、自分の絵が分からなくなった。

 

「……うるさい……全部うるさい……」


 ふと顔を上げた視線の先に、木製のキャビネットがあった。

 その上には、アンティークな小さな椅子。

 そこに、球体関節人形が座っている。

 

 名前はイヴェル。

 

 体長は四十センチほど。ブロンドの長い髪。閉じた瞼。わずかに微笑む口元。

 真っ黒なドレスが、ひどく似合っている。


 イヴェルと出会ったのは、大学に入学したばかりの頃だった。

 今日みたいに自信作を教授に酷評されて、気分が最悪だった日。

 帰り道、普段なら絶対に通らない路地になぜか足が向いた。

 そこに、小さなドールショップがあった。

 

 ショーウィンドウ越しに、ガラスケースの中のイヴェルが見えた。

 一目見ただけで、目が離せなくなった。

 気づけば、導かれるように店の扉を開けていた。


 店員に聞くと、イヴェルは本来なら展示品で、売り物ではなかったらしい。

 でも、その日で店が閉まるからと、偶然売りに出されていた。

 

 それから今までずっと支えてくれた、ボクにとって大切な存在だ。

 あの日、イヴェルを連れて帰らなかったら、たぶん今のボクはいない。

 

 ボクはイヴェルに近づき、小さく問いかける。

「ボクって間違ってるのかな……」

 

 答える声はない。ただ、目を閉じたイヴェルの微笑みがそこにあるだけ。

 

 ――そのままで、いいのです。

 

 そう聞こえた気がして、ボクは少しだけ笑った。

「……そうだよね」


 その瞬間、胸の奥で何かが静かに噛み合った。

 

 なんで今まで気づかなかったんだろう。

 ボクがいちばん大事にしてきたものは、ずっとここにあったのに。

 

「そうか……ありがとう、イヴェル」

 

 指先でそっとイヴェルの髪を撫でる。

 ブロンドの髪が、さらりと揺れた。


 静かな月夜が、ボクとイヴェルを包んでいた。

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