40話 雨に紛れて(蒼真)
雨の向こうに、漣の姿が見えた瞬間。
――息が止まった。
街灯の下。濡れた黒髪。暗い道の端で、ひとりで立っている。
見間違いじゃない。どうして傘も持たずに、こんなところに……?
「……漣?」
呼んだ声が、自分でも情けないくらい掠れてる気がして、焦る。
また避けられたら……と思うと不安で、すぐに距離を詰めた。
傘を差し出すと、漣がゆっくり顔を上げた。
その目が濡れているのは、雨のせいなのか暗くてはっきりとは分からなかった。胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「……何してんの。こんな雨の中。風邪ひくぞ」
漣の心配をするのがクセになっていて、自然と口から出た言葉だった。
漣は小さく唇を動かして、目を逸らした。
「……別に。歩いてただけ」
漣の声が震えてる。脆くて、苦しそうで――抱きしめたいと思ってしまった。
「歩いてただけ、って……こんな時間に……」
喉の奥が熱い。言いたいことが多すぎて、どれから出せばいいのか分からない。
でも――まず言わないといけないのは、これだ。
「なんで、オレのこと避けるの」
漣の肩が、ほんの少しだけ揺れた。
沈黙で雨の音だけがやけに大きく聞こえる。
少しして漣が口を開く。
「……避けてない」
聞いたことのある嘘。
アトリエへ会いに行った時のことを思い出して、胸が痛む。
「避けてるだろ……」
強く問い詰めたかったのに、声が情けなくなる。
「……ずっと。返事も、目線も、全部前とちがう」
漣は、目を逸らしたまま黙っている。
濡れた前髪から雫が落ちて、地面に吸い込まれる。
「オレ、漣に何かした……?」
返事を待つのが怖い。でも、漣からちゃんと答えを聞きたい。
しばらくして、漣がやっと口を開いた。
「……邪魔になりたくなかった」
「……は?」
頭が追いつかない。邪魔? 誰の? 何の?
漣は目を逸らしたまま言った。
「蒼真が……幸せそうだったから」
言葉を探すみたいに続ける。
「彼女ができて……ちゃんと、居場所ができたのに。俺が近くにいたら、また……」
その先が言えないみたいに、漣は唇を噛んだ。
漣は、オレのことを思って離れようとしてたんだ。
でも、そんなの許さない。
「邪魔って思ったこと、一度もない!」
傘が揺れる。声が大きくなって、自分でも驚く。
「漣に避けられるのは……傷つく。ほんとに苦しかった」
言いながら、胸が苦しくなって涙が込み上がってきた。
「オレ、漣がいないと息できない……漣とまた、今までみたいに話したい」
漣をまっすぐ見つめる。
漣の目が一瞬だけ大きくなって、すぐに逸らされた。
漣が掠れた声で言う。
「……でも、彼女との時間削らせて、またこうやって……世話焼かせてる」
そこか。漣は、そこをずっと気にしてたんだ。
オレは息を深く吸って――短く言った。
「……別れた」
漣が固まる。雨の音が大きくなる。
「……え?」
「別れた」
もう1回言うと、言葉が少しだけ震えた。
「……早すぎだろ」
漣が、信じられないって顔をする。
その顔が懐かしくて、苦しいのに嬉しかった。
「やっぱりオレ、誰かと付き合うの……向いてなかったみたい」
言い訳だ。自分の声が頼りない。
本当は……漣への気持ちに気付いたから。
こんなこと正直に言ったら、きっと漣はもっと離れてしまう。だから、言わない。
漣は、返事に困ってるみたいな顔で、ただ聞いていた。
漣に会えない日が、苦しかった。
オレが一番落ち着くのは、最初から――。
目の前の漣がまたいなくなったらと思うと、もう止められなかった。
「……ずっと一緒にいたのにさ」
声が震える。オレは笑おうとして、できなかった。
「急に離れていくなよ……っ」
言った瞬間、胸の奥がほどけて、同時に崩れた。
涙が、勝手に落ちた。雨に紛れてくれって思うのに、止まらない。
雨音がうるさい。なのに、漣の呼吸は近くに聞こえる。
漣は「ごめん」とだけ言って、こちらを覗き込む。
それだけで胸がいっぱいになった。
息を整えて、やっとこれだけ言えた。
「……帰ろ?」
漣の返事は、聞こえないくらい小さかった。でも、頷いたのが分かった。
雨の中、ふたりで歩き出す。傘は自然に、漣の方へ傾く。
家まで送る、って言い訳しながら。
本当は――今夜だけでも、離れたくなかった。
***
漣のアパートの前に着く頃には、雨は少しだけ弱まっていた。
でも服は濡れていて、湿った冷たさがじわじわ指先に残る。
漣が鍵を開ける仕草をして、止まる。
「……入らないの」
ぽつりと落ちた声が、雨の夜にやけに響いた。
オレはまた笑おうとして、うまく笑えなかった。
「……今日は、ここまでにする! 久しぶりに話せたからさ……このまま一緒にいたら、ずっと居たくなりそうで」
言い終わった瞬間、今のセリフちょっと重かった……?って少し怖くなる。
漣が何か言いかけて、やめたみたいに目を伏せた。
早く立ち去らないと、気持ちが溢れてまた泣いてしまいそうだった。
「漣、風邪ひくなよ」
もっと気の利いたこと言えたはずなのに、それしか言えなくてもどかしかった。
漣は一瞬だけ目を見開いて――小さく頷く。
「……蒼真も……ありがとう」
ドアが閉じていく。漣の姿が半分隠れる。
閉まる直前、漣がほんの少しだけこちらを見た。
その視線に、胸がまた痛くなる。
離れたくないな……『やっぱ帰んない』って言いたい。
でも、やっとまた漣と話せたんだ。それだけで嬉しくてたまらなかった。
――明日、また話せるといいな。
濡れた手のひらを握りしめて、傘を差した。




