2話 いつも通りの距離(漣)
――ある日の午後、大学併設のカフェにて。
二週間後に控えた試験のため、カフェには教科書を広げる学生が多かった。
俺――篠宮 漣と蒼真も、その中の一組だった。
窓際の二人席。カップが受け皿に触れる音と、落ち着いたBGMが静かに流れている。
その中で、向かいに座る蒼真の声だけがやけに近く感じた。
蒼真がテキストを指さして言う。
「れんー、ここ分かんない」
「……それ、教育学部の範囲だろ。俺まったく分からない」
「まあまあ、見てみ。漣なら分かる気がする!」
テキストを少し覗き込む。
やっぱり見慣れない単語ばかりで、何ひとつ分からない。
「気のせいだと思う」
「だよなぁ……」
蒼真がうなだれる。
シャーペンをくるくる回していたかと思えば、諦めたみたいにアイスカフェラテを一口飲む。でも、すぐに教科書へ視線を落とした。
こういう切り替えの早さも、蒼真のいいところだと思う。
――が、その集中は長く続かなかった。
教科書を数ページめくったところで、蒼真はぱたん、とそれを閉じる。
「なぁ、漣。このあとの予定は?」
「画材買いに行く」
「隣駅のとこ?」
「そう」
「オレも着いてっていい?」
「……うん」
「やった!」
そのやりとりで、さっきまでの勉強モードはどこかへ消え去った。
***
画材店に入ると、紙やインクが混ざった独特の匂いがした。
壁一面に並ぶ筆や絵の具、キャンバス。見慣れた道具たちに囲まれると、少しだけ気持ちが上がる。
その隣で、蒼真は子どもみたいに目を輝かせていた。
「筆の種類、多っ!」
「それぞれ用途が違うから……」
「これは何に使うのー?」
「それは……」
興味津々で聞いてくる蒼真に付き合っているうちに、気づけば俺は、筆の違いや使い道をひとつひとつ説明していた。
蒼真は「へぇー」とか「すげー」とか、そのたび素直に反応する。
そういうところが、少し楽しい。
会計を済ませて外へ出ると、出口の近くで待っていた蒼真がこちらを向いた。
そのまま合流して、ふたりで駅に向かって歩き出す。
隣を歩く蒼真が、思いついたみたいに声を上げる。
「何に使うか分かんない道具選んでる漣、なんかかっこよかった……!」
「褒めてるのかそれ」
「もちろん!」
「ふふっ……何言ってんの?」
「ナイフみたいなの真剣に選んでる姿、RPGの武器屋で装備見てる人みたいで、めっちゃかっこよかった」
思わず吹き出す。中二病かよ。
蒼真の適当な褒め言葉は、だいたい雑だ。
でも、その雑さが妙におかしくて、つい笑ってしまう。
やっぱり蒼真と一緒にいると楽しい。
十年以上一緒にいても、こうして笑っていられる時間に心が和む。
蒼真が、隣で急に思いついたみたいに口を開く。
「そんなかっこいい漣に提案なのですが」
「嫌な予感しかしない」
「今からラーメン食べに行きませんか?」
間髪入れずに続く。
「もうちょい一緒にいようぜー? ラーメン食べたい! 食べたい! 食べたい!」
「……分かったから」
それ、もう“行く”選択肢しか選ばせないやつだろ。
***
いつものラーメン屋は、夕方でも賑わっていた。
店内の熱気と、スープの匂いが混ざっている。
俺は髪を耳にかけ、麺を啜り始める。
向かいに座る蒼真が、箸を止めたままじっとこっちを見ていた。何なんだ。
目が合うと、蒼真が口を開いた。
「なぁ、漣さんよ」
「なに」
「……なんでさ、ラーメン食ってるだけでそんな様になるわけ?」
「……は? 何の話?」
「ずるくない?! 羨ましすぎて爆発しそうなんだけど」
「なにそれ、大げさすぎ」
しょうもない会話に自然と笑ってしまう。蒼真がおかしなことを言って、俺が適当にあしらう。
いつも通りのやりとりが、少しだけ嬉しかった。
***
店を出る頃には、外はもう薄暗くなっていた。
駅へ向かう道、今日も蒼真が俺の右隣を歩いている。
その距離が、俺にとってだけ特別な意味を持っていることも知らずに。
それを蒼真に知ってほしいわけじゃない。
蒼真との日常が当たり前にずっと続いてくれるだけで良かった。
――この日常が、いつまで続くのかなんて考えもしなかった。考えないようにしてた。




