1話 当たり前の距離(漣)
――また、雨だ。六月の空は、今日も重たい。
三年生になると、授業より油絵の制作時間が増えた。
今日も作業を終えて大学の校舎を出ようとした、その時だった。
俺(篠宮 漣)は、校舎の軒下に立つ見慣れた人物を見つけて足を止めた。
無造作にセットされた茶髪。人懐っこそうな横顔。
傘も差さず、スマホを手に空を見上げている。
それだけで、誰か分かってしまう。
――またか。
ため息は、もう癖になっていた。
「……蒼真」
名前を呼ぶと、背中がぴくりと動き、勢いよく振り返った。
「漣……! ねえ聞いて。傘忘れた」
まるで大事件のような口ぶりだ。
俺は呆れたように目を細める。
「……何回目だよ」
「え? でもさ、今日は持ってたんだよ? 家出る前までは!」
「それを“忘れた”って言うんだよ」
冷めた声音で返すと、蒼真はふざけてあざとく上目遣いをしてくる。
「漣くーん♡ いっしょに帰ろ?」
「……入れよ」
傘を傾けると、蒼真が嬉しそうに入り込んでくる。
当然みたいに距離を詰めてくる。
肩が触れる。歩調が揃う。
「ありがとー! いやー、助かった!」
無邪気に笑うその顔を見た瞬間。
胸の奥が、わずかに痛んだ。
……でも、気づかないふりをする。
小学四年生の時の、あの雨の日と同じ構図。
十年以上経っても、この距離だけは変わらない。
***
駅までの道、他愛ない会話が続く。
「そういえばさ、今日は芸術学部どうだった?」
普通だ、と答える。
ほんの少し間があって、蒼真は納得しない顔をして言った。
「普通って言う割に、顔疲れてる気がするんだけど」
「……気のせい」
「いや、眠そうだし明らかに疲れてる顔だろ?! また展示用の作品描いてるの? 」
「まぁ、それもあるけど。今はそこまで追い込まれてないし……普通に元気」
「そっか。それならいいけど……って言うとでも思ったか?!」
蒼真はそう言って、俺の顔を覗き込もうとする。……近い。
去年、絵の制作に没頭しすぎて倒れた。
それ以来、蒼真は過保護なくらい俺の体調を気にする。
何かに集中すると、すべてを疎かにしてしまう自分が悪いのだけど……。
「……いいから、前見て歩け」
「あ、またそうやって話反らす!」
そう言いながら、蒼真は歩幅を合わせてくる。
傘の中、二人分の体温が混ざる。
***
駅に着いたところで声を掛ける。
「……蒼真」
「ん?」
「次は、傘持って来いよ」
「りょーかい!」
即答だった。
どうせまた忘れる。
それが分かっているから、思わず笑ってしまう。
出会った頃から、こうして並んで歩いているうちに。
蒼真は、俺にとって当たり前で――特別になってしまった。
それに気付いたのは、高校一年生の時だった。
クラスが違う蒼真と廊下ですれ違うたび、目で追ってしまう。
体育祭。文化祭。行事のたびに蒼真の姿を探してしまう。
見つけるだけで安心して、こっちを向かないと、なぜか少しだけ寂しくなる。
目が合って、笑って手を振られると――切なくなって胸が締め付けられた。
ある日、気づいた。
――ああ、これ。友達に向ける感情じゃない。
心臓の音だけが、やけにうるさかった。
でも、この気持ちをはっきり言葉にしたら、きっと関係は壊れてしまう。
だから――抑え込むことに決めた。
この距離がいいんだ、と自分に言い聞かせて――。
当たり前の距離を、壊さないために。




