プロローグ(漣)
――俺の世界は、ずっと静かだった。
あれは、小学四年生の六月。
雨の日の図書室だった。
窓を叩く雨の音が、細かく、絶え間なく響いていた。
曇り空で薄暗くなった室内。湿った空気。
静まり返った空間に、鉛筆が紙を擦る音だけが耳に入ってくる。
俺は机に向かい、いつも通り絵を描いていた。
誰とも話さず、誰にも邪魔されず、ただ一人で過ごす時間。
それが当たり前で、それで十分だと思っていた。
――その時。
ばさり、と足元に本が落ちた。
顔を上げると、男子生徒が目を丸くしてこちらを見ていた。
たしか違うクラスのやつだ。廊下で友達と騒いでいるのを、何度か見かけたことがある。
「わーっ! ごめんね!」
慌てて頭を下げる姿が、妙に大げさだった。
俺は何も言わず、本を拾って差し出した。
受け取った瞬間、そいつはぱっと笑った。
まっすぐで、やけに明るい笑顔。
「ありがと! えっと……同じ学年だよね?」
「……そう、だと思う」
「名前聞いていい? オレ、泉水 蒼真!」
次から次へと勢いのまま話しかけられて、思わず眉をひそめる。
「篠宮 漣」
「よろしくー! 漣くんって呼んでいい?」
「あ……うん」
「オレのことは蒼真でいいよー!」
第一印象は、――なんだよ、こいつ。距離近い。
他人と話すのが得意じゃない俺にとって、明らかに苦手なタイプだった。
それなのに――。
気づけば、蒼真は俺の隣の席に座っていた。許可なんて、もちろん取っていない。
彼は椅子を引き寄せ、こちらに身を乗り出すようにして小声で話し始める。図書室だからか、声をひそめて話しているらしい。
それでも、やけに楽しそうだった。
自分のクラスのこと。友達のこと。先生のこと。日常のこと。
俺にとっては、どうでもいい話だった。
それなのに。
雨の音と、紙を擦る音と、蒼真の声が混ざって――。
その全部が、やけに心地よく馴染んでいく。
まるで最初から、そこにあるみたいに。
本当は、少しだけ不思議だった。
俺がろくに返事をしなくても、気の利いたことを何も言えなくても、会話が弾まなくても、蒼真は帰らなかった。
普通なら、とっくに離れていくはずなのに。
……なんで、まだいるんだろう。
もしあの時、蒼真がすぐに帰っていたら。
きっと俺は、何も変わらなかった。
名前を呼ばれることのない毎日。
俺がいなくても変わらない学校生活。
――それで、よかったはずなのに。
なぜか、彼がそこにいてくれることが、少しだけ嬉しかった。
***
数日後、また雨だった。
下駄箱で靴を履いていると、蒼真が空を見上げて立ち尽くしていた。
どうやら傘を忘れたらしい。
しばらく迷ってから、俺は勇気を出して声をかけた。
「あ、あの……蒼真くん。傘、入る?」
差し出した瞬間、蒼真は一瞬きょとんとして――すぐに笑顔になった。
「いいの? やった!」
肩が触れる距離で歩く帰り道。歩幅を合わせて歩いた。
少しだけ居心地が悪かった。近すぎて落ち着かない。
でも、蒼真の話を聞きながら歩くのは、ひとりで歩くより――ずっとよかった。
その日から、蒼真は会うたび話しかけてくるようになった。
絵を描いて、本を読んで、誰とも関わらず過ごしていた俺の日常に。
蒼真という存在が、光みたいに入り込んできた。
――それが、すべての始まりだった。
雨の音の中で、ふたりの物語は静かに動き出した。
まだ何も知らないまま。
まだ何も気づかないまま。
ただひとつだけ分かっていた。
もう、ひとりだった頃には戻れない、と。




