第10話(後編)――「灯の杯、波の踊り」
(1521年6月18日、夕方。ドミニカ島旗艦提督室)
夕方の海はまだ明るさを残していたが、船内は早く暗くなる。甲板の隙間から差す光は細く、提督室の空気には、潮と松脂と焦げた油の匂いが混じっていた。船体がうねりに合わせて小さく鳴り、梁がきしむ音が、部屋の奥まで低く伝わってくる。
探索から戻ったディエゴは、泥の付いた靴を入口で脱ぎ、手を洗ってから室内へ入った。服には森の湿りが残り、肩口に乾きかけた汗の塩が白く浮いていた。彼は窓際の卓へ地図と小袋を置き、すぐに声を整えた。
ディエゴは兵に命じた。「今夜は宴会にする。提督室に出入りする者は、侍女たちへ無礼を働くな。言葉も、目つきもだ。命令を破れば、その場で罰を与える」
兵は背筋を伸ばし、「承知しました」と短く答えて下がった。扉が閉まると、金具が触れて乾いた音がした。
提督室の隅には、保護されているスペイン人の女たちが集まっていた。イサベルは子を抱いていた。子は疲れ切って眠り、頬に薄い汗が光っている。ルイサは室内の品を目で追い、数を数える癖が抜けないのか、指先が無意識に動いていた。カタリナは台所の匂いに敏感で、倉庫から運ばれてくる箱を見ただけで中身を当てるような顔をする。ベルナルダは薬草袋を腰に下げ、昼の擦り傷を洗う水の用意を先に考えている。エレナは全員の様子を一度見回し、言い争いが起きないように間に立つ位置へ自然に移った。
ディエゴは5人へ向き直り、落ち着いた声で言った。
ディエゴはこう言った。「今夜の支度を手伝ってほしい。無理はさせない。嫌なら断っていい」
エレナが最初に答えた。「提督、承知しました。皆にもそう伝えます」
イサベルは子の頭を撫で、少し遅れて言った。「提督、子が眠っております。できることからいたします」
ルイサは深く息を吸い、「提督、数と置き場は私が見ます」と言った。
カタリナは袖をまくり、「提督、台所を見せてください。塩と火の具合を確かめます」と続けた。
ベルナルダはうなずいた。「提督、皆さまの手に傷があれば、先に洗いましょう」
倉庫の戸が開くと、冷えた木と樽の匂いが一気に流れ込んだ。兵が箱を運び、卓の上へ置くたびに、板が重く鳴った。瓶は薄い藁で巻かれ、口には蝋が固く付いていた。香辛料の袋を開けた瞬間、胡椒の刺激が鼻を刺し、喉の奥が熱くなる。乾いたカカオ豆の匂いは苦く甘く、焼けばすぐ香りが立つのが分かる匂いだった。
ルイサは箱の蓋を押さえ、ラベルを読み上げながら数をそろえた。「提督、ワインは赤が3本、白が2本です。蒸留酒は小瓶が4つあります」
ディエゴはうなずき、「間違いがないな。頼む」と言った。ルイサはそれだけで肩が軽くなるのか、口元が少し緩んだ。囲いの中では、数を間違えると叱責が待っていた。今は違い、間違いを探すのではなく、支度が整うことが求められていた。
イサベルは子を寝台へ移し、静かに布をかけた。針と糸を借りると、破れた卓布の端を手早く整え、糸目を細かくそろえた。蝋燭の光が針先で小さく揺れ、布を引くたびにさらりと音がする。イサベルは手を止めずに言った。「提督、これなら見苦しくありません」
ディエゴは目を落とし、「助かった。あなたの手は速い」と返した。イサベルは視線を伏せたが、その声の温度だけは確かめるように耳に残した。
カタリナは台所へ入ると、火の番の兵へ先に釘を刺した。「提督の命令です。酒樽には触れるな。鍋の中に指を入れるな」
兵が一瞬戸惑うと、ディエゴが扉口から言った。「聞こえたな。手を離せ」
兵は慌てて下がった。カタリナは塩蔵肉を見て、切り方と焼き方を決めた。脂の匂いが火で立ち上がり、鉄鍋が熱で鳴った。干し豆は水へ移され、ふやける音がしないほど静かに沈んだ。とうもろこしの粉は湯で練られ、手のひらにまとわりつく感触が重い。辛い唐辛子をすり潰すと、目の奥がじんとし、涙が少しにじむ。だがカタリナは笑った。「提督、これで眠気も飛びます」
ベルナルダは水を温め、薬草を少しだけ落とした。草の匂いは青く、土っぽい苦味が鼻へ残る。彼女はディエゴの手を取って傷を見て、きちんと言った。「提督、森の枝で切れております。洗います」
ディエゴは抵抗せず、「頼む」と答えた。ぬるい水が皮膚に触れ、痛みが遅れて来る。ベルナルダは布を絞り、丁寧に押さえた。乱暴に扱われることが当たり前だった女にとって、男の手を洗い、感謝される作業は、奇妙に心を落ち着かせた。
エレナは全員の役目がかぶらないように言葉を回し、声を荒らげる者が出そうになる前に視線で止めた。瓶を並べる卓の位置、皿の順番、子が目を覚ました時の水の置き場まで、静かに決める。提督室には、いつのまにか宴会の形ができていった。
料理が揃うと、空気が変わった。湯気が上がり、脂と香辛料の匂いが部屋の隅まで満ちる。焼いた肉の表面は香ばしく、切ると中から熱い汁が出た。豆の煮込みはとろりとして舌に残り、塩気のあとに甘い余韻が来る。とうもろこしの団子は手で割ると湯気が立ち、指先が熱い。カカオの飲み物は泡が厚く、木の器に注ぐと表面がゆっくり揺れた。苦味の後から甘味が追い、喉が温かくなる。ワインの香りは果実の酸味を含み、杯を傾けるたびに舌の上が軽くしびれた。
5人は、目の前の贅沢を疑うように眺めてから、次の瞬間には顔を輝かせた。ルイサは小さく息を漏らした。「提督、こんな……」と言いかけ、言葉を飲み込んだ。カタリナは笑って言った。「囲いの夜に、これが1口でもあったら、皆が泣いて喜びました」
イサベルは眠る子を見て、静かに言った。「この匂いを、この子に覚えさせたいです」
ベルナルダは泡立つカカオを見て、「薬ではなく、祝うための飲み物ですね」とつぶやいた。
エレナは全員の杯が満ちたのを確かめ、ディエゴへ向き直って言った。「提督、皆さまが落ち着きました。ありがとうございます」
ディエゴは杯を上げた。「今夜は食べて、笑え。ここでは、怯えなくていい」
その言葉は短いが、5人の身体から力を抜いた。笑い声が最初は小さく、次に大きくなった。船が揺れるたびに皿がかすかに鳴り、燭台の炎が傾く。窓の外では波が黒く盛り上がり、白い泡が流れていった。
酒が回ると、誰かが足で拍子を取り始めた。兵の1人が遠慮がちに弦を鳴らし、低い音が提督室へ入った。エレナが「提督、よろしければ」と言うと、ディエゴは立ち上がった。
ディエゴはイサベルへ手を差し出し、「1曲だけ」と言った。イサベルは一瞬ためらったが、子が眠っているのを確かめ、そっと手を置いた。彼の手は熱く、握り方が乱暴ではない。踊りは派手ではなく、狭い室内に合わせて小さく回る。イサベルは目を伏せたまま、最後にだけ言った。「提督、ありがとうございます。私、久しぶりに息が楽です」
ディエゴは答えた。「息が楽なら、それでいい」
次にルイサが誘われた。ルイサは頬を赤くしながらも、「提督、失礼いたします」と丁寧に言って立った。足がもつれそうになると、ディエゴはすぐ歩幅を合わせた。ルイサは笑いながら言った。「提督、私、数は数えられるのに、拍子は数えられません」
ディエゴは笑って返した。「拍子は間違えていい。今夜は帳面じゃない」
カタリナは最初、火の番の顔をしていたが、エレナが肩に手を置き、「今夜は任せなさい」と言うと、ようやく杯を置いた。カタリナはディエゴの前へ出て、「提督、踏まないでくださいね」と冗談めかして言った。ディエゴが「踏まない」と返すと、カタリナは腹の底から笑った。料理人の笑いは、台所の煙よりも強く、周囲を元気にした。
ベルナルダは最後まで控えめだったが、ディエゴが「あなたも踊れ」と言うと、逃げない目で答えた。「提督、では、少しだけ」
彼女の手は薬草の匂いがした。踊りながらも、彼女は無意識に相手の息の荒さを確かめるように胸の上下を見てしまい、気づいて自分で笑った。「癖が抜けません」
ディエゴは穏やかに言った。「癖は命を守る。悪くない」
エレナは最後に立った。年長の落ち着きがあり、室内の揺れに合わせるのがうまい。エレナはディエゴを見て、きちんと言った。「提督、私たちは今夜、捕虜ではありません。人として扱われています」
ディエゴは短く答えた。「それが当然だ」
エレナはその返事を聞き、頷いた。言葉に飾りがなく、だから信用できた。
贅沢は、腹を満たすだけでは終わらなかった。恐怖で固くなっていた心が、温かい酒と食事と、乱暴でない手の触れ方でほどけていった。誰かがディエゴへ女としての好意を抱いたとしても、それは弱さからだけではない。生き延びるために縮めていた自分を、久しぶりに伸ばせた夜だったからだ。責める声が届かないほど、波の音は近く、提督室の灯りは明るかった。




