第11話――「湯気の卓、ほどける指先」
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登場人物〈男性〉
ディエゴ〈28〉(遠征司令官、大尉) アルバロ〈27〉が遠征の際に名乗る仮名だ。アルバロは新大陸の皇帝を名乗り、新大陸からスペイン人勢力を追い出す意志を持つ。ただ、皇帝が前線へ出る格好は避けるため、現場では「ディエゴ」を名乗って軍を率いる。妻や妾、侍女、兵は真相を知らされておらず、ディエゴを高級将校だと受け取っているため、呼び方も態度もその前提で統一されている。
ペドロ・サラサル〈29〉(雇い入れ・船大工) 板の反りと釘の打ち方を知る。小舟の修理と簡単な補修を任される。
ミゲル・デ・オルティス〈16〉(雇い入れ・荷役見習い) 母と共に港へ流れ着いた。成人後は部下に取り立てる方針で、当面は荷役に回される。
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登場人物〈女性〉
サク・ニクテ〈22〉(正妻) コスメル島出身の先住民。コスメル島部隊5000名の隊長。上陸地の井戸と倉を先に押さえ、配給と整列で隊の崩れを防ぐ。妊娠中〈10月半ば出産予定〉だが、腹の子の動きを隠さず前に立つ。
マルタ・ロペス〈19〉(妾・新任) キューバ島の小教会にいた司祭の家で暮らしていた女性。寝具と衣類を預かり、針仕事で傷みを直してきた。祈祷文と聖歌を覚えており、人前でも声が崩れにくい。読み書きは得意ではないが、手順を守るのがうまい。過去の功績により、ディエゴの妾に抜擢された。
ドニャ・ベアトリス〈30〉(妾・新任、スペイン人) セビリア出身。夫はサンチャゴ大聖堂に属する聖職者で、説教と告解の取りまとめに関わっていた。夫は旧来の権力筋と近く、城塞の内側の噂や名簿の流れにも通じていたが、争いの後に失脚し、姿を消した。ベアトリスは生き残りのためにディエゴへ好意を示し、名と事情を取引にする形で近づく。遠征には侍女として付いてきたが、口と香りで間合いを詰める癖があり、ディエゴは情報源として手元に置いた。第4話後編で功績を上げ、妾に抜擢された。
イネス・アルバレス〈26〉(妾・スペイン人) エストレマドゥーラ出身。夫はキューバ東部の砂糖農場の経営者で、圧搾機と倉、労働者の手配まで握っていた。夫は騒乱の夜に殺され、農場は人手と道具だけが残った。イネスは農場の内側を知り、誰が怠け、誰が盗み、誰が働いたかを具体で言える。ディエゴに好意を匂わせ、遠征では侍女として衣類や寝具の手配にも回るが、利で動く言い回しが抜けず、旧勢力との結びつきも疑われている。ディエゴは現場の証言を引き出すためにそばへ置いた。
クララ・デ・アビラ〈20〉(妾・新任) サントドミンゴの司祭館で同居していた女性。台所だけでなく家計簿と支払いの控えを任され、買い物の値と銅貨の数を間違えない。表に立って働いて稼いだ経験は乏しいが、帳面と鍵の扱いで屋敷を回してきた。
レオノール・メンドーサ〈22〉(妾・新任) イスパニョーラ島の司祭館で客間と寝具を預かっていた女性。割れ物や布の扱いが丁寧で、物の置き場を覚えるのが早い。先住民の女たちの言葉を少し知っており、水場や台所の伝言役に回れる。今話では通訳役を務め、短い命令や確認なら通じる程度だ。
ドニャ・テレサ・デ・バルデス〈31〉(妾・新任) 処刑された旧支配者の妻。家の出納と帳面の付け方を知り、クララの補佐に回る。
ドニャ・アナ・デ・ラ・クルス〈28〉(妾・新任) 幼い娘を連れて忠誠を誓う。台所の段取りと保存の扱いを任される。娘ルシア〈6〉は母と同じ区画で寝起きする。
マリア・デ・オルティス〈38〉(妾・新任) 息子ミゲル〈16〉の母。針仕事と洗い物を請け負い、寝具と衣類の手入れを任される。ディエゴの夜伽にも応じ、サンファンにおける散策にも付き合い、互いに心を通じ合わせる。
フアナ・デ・ルナ〈21〉(妾・新任) 皿洗いが早く、細かな始末が丁寧だ。水場の手として雇われる。
エルビラ・グスマン〈18〉(妾・新任) 水瓶運びと倉の戸の扱いを覚えるのが早い。運搬と戸口の手として雇われる。ディエゴに忠実。
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アナイラ〈36〉(族長の正妻、人質兼侍女) 族長の家を切り盛りしてきた女性。川口と集落の道を知る。
シリマ〈20〉(族長の妾、人質兼侍女) 若く、目が利く。森の足場と危ない谷を覚えている。
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〔新任の侍女たち:捕縛したスペイン人の女たち〕
[侍女1]イサベル・ロドリゲス〈24〉 サントドミンゴから小舟で移動中、嵐で流されてドミニカ島へ漂着した。夫は水際の争いで死亡し、以後は子を抱えて森の囲いに隠れていた。針と布の扱いが早く、破れた衣の繕いで手を動かせる。
[侍女2]ルイサ・エスピノサ〈19〉 港の下役の家の娘。読み書きの初歩を身につけており、短い祈祷文と物の数え方を覚えている。囲いでは火の番を担い、煙を小さく保つ工夫をしていた。
[侍女3]カタリナ・サントス〈33〉 兵の炊事場にいた女で、塩蔵と干し物の加減を知る。島では貝と木の実を選り分け、腹を壊さない順で子どもへ回していた。
[侍女4]ベルナルダ・メヒア〈27〉 雑役として司祭館に出入りしていた。薬草の匂いと傷の洗い方を少し知り、発熱した子どもの額を冷やす役を担っていた。
[侍女5]エレナ・デ・トレド〈41〉 年長で、囲いの中では女たちの口論を止める役に回っていた。物資が尽きた夜、誰がどれだけ食べたかで揉めた際も、声を荒らげずに分け方を決めたという。
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(1521年6月30日、朝。ドミニカ島旗艦提督室)
ディエゴはここ十数日、妾たちの区画にばかり顔を出していた。旗艦の中は人の気配が濃く、夜ごと笑い声が壁越しにこぼれてくる。新任の侍女たちは、その声が途切れるのを待つようにして眠り、朝になれば何事もなかった顔で水を運び、布を洗い、針を動かした。
兵たちは彼女たちを粗末には扱わなかった。イサベルには子の分の乾パンが回り、ルイサには帳面の端が渡された。カタリナには炊事場の男が火を譲り、ベルナルダには傷薬の瓶が預けられた。年長のエレナは口論の芽を摘み、アナイラは水場の話をまとめ、シリマは周囲を見張った。
それでも胸の奥は乾いていった。ディエゴの冗談が飛んでこない。名を呼ばれることもない。褒められたいというより、見られていると確かめたかった。手を動かすたびに、自分が透明になっていく気がした。
今朝、ディエゴは廊下の端でその沈みを見た。ルイサは祈祷文を口の中でなぞり、イサベルは縫い目を指で押さえ、カタリナは塩加減を確かめる顔をしていた。誰も不満を言わない。だからこそ、黙り方が切実だった。
ディエゴは息を吐き、決めた。今日だけは妾たちの部屋へ行かない。新任の侍女たちと同じ卓につき、言葉を渡す。
提督室の隣の食卓は、朝から熱を帯びていた。窓を開けると潮の匂いが入り、帆布を打つ風の音が遠い波音に混じる。板の床は夜の湿りを残し、裸足で踏むとひやりとした。だが、空気はもう夏の重さだった。
誰も厚い衣を着ていられない。男も女も薄い麻布だけで、肌は風にさらされる。塩が乾いて白く残り、汗は首筋から鎖骨のあたりへ流れた。肩に掛けた布は、動くたびにずれて、指で直す仕草が増える。目を上げれば、そのたびに視線がぶつかる。ぶつかった方が先に逸らす。逸らした方が、あとで悔しくなる。
エレナが先に動いた。彼女は言った。「皆さん、手を洗ってください。将軍のお席も整えます」
声は落ち着いていたが、指先の動きが速い。机の布を引き、皿の位置を直し、湯気が逃げるよう窓を少しだけ開けた。
アナイラは壺の水を運び、シリマは果物籠の下に葉を敷いて傷みを隠した。ルイサは杯を並べ、イサベルは椅子の破れを縫い留める。カタリナは干し肉を薄く裂き、塩を落とす水にくぐらせた。ベルナルダは香草を砕き、粥へ落とす。匂いが立ち、潮気の重さが少しだけ軽くなる。
ディエゴが入ってきた瞬間、背中が一斉にこわばった。視線を上げたいのに上げられない。皿を置く音だけが妙に大きく聞こえた。
ディエゴは椅子を引き、笑って言った。「そんな顔をするな。今日は叱りに来たんじゃない。朝の匂いが良すぎて、俺の方が負けた」
彼は自分の上着の紐をほどき、肩から外した。濡れた髪が首筋に貼りつき、日焼けした肌に汗が光る。視線を落としたはずの女たちの目が、そこへ吸い寄せられ、すぐに慌てて戻った。
エレナが咳払いをして言った。「将軍、皆が緊張しております。どうかお許しを」
「許すも何もない」ディエゴは椅子へ腰を下ろし、「俺が緊張してる。お前たちの手際が良すぎてな。ここに座ると、俺だけがだらしなく見える」
その一言で、場が少し緩んだ。笑っていいのか迷って、笑いきれない。それがかえって可笑しい。
ディエゴはまずエレナを見た。
「エレナ、よくまとめてくれた。怒鳴らずに人を動かすのは難しい。お前はそれができる」
エレナは目を伏せ、「恐れ入ります」と言った。だが、肩の力がふっと抜けた。
次にアナイラへ。
「アナイラ、水の運び方が静かだ。音を立てない女は、家を壊さない」
アナイラは静かに頷いた。頷き方に、長く家を切り盛りしてきた癖が出た。
シリマが果物を置くと、ディエゴは笑った。
「シリマ、その目だ。森の危ない場所も、人の嘘も見抜くだろう」
シリマは丁寧に答えた。「将軍、私の目はまだ若いです」
「若いのに鋭い。危ないな」
冗談の形をしているのに、言葉の端が熱い。シリマの喉が小さく鳴り、唇が一瞬だけ乾く。
ルイサが水差しを持って近づいた。杯へ注ぐとき、手がほんの少し震えた。水が縁で跳ね、ディエゴの指に落ちる。
ディエゴは杯を置かせず、そっと言った。「慌てるな。こぼしたのは水だ。罪じゃない」
ルイサが「申し訳ありません」と言いかけたとき、ディエゴの指が彼女の手首を軽く押さえた。止めただけの触れ方だ。だが、皮膚に伝わる熱がはっきりして、ルイサの息が詰まる。
ディエゴは、押さえたまま笑った。「ほら、震えが止まった。お前の手は正直だな」
ルイサはようやく言った。「……恐れ入ります」
声は整えたが、耳まで赤い。エレナが見ていないふりをし、カタリナが皿を直すふりをした。誰もが、見てしまっている。
イサベルが子の分を別皿にしているのを見て、ディエゴは低く言った。
「イサベル、お前の手は速い。だがそれ以上に、先に気づく。子を守れる女は、周りも守る」
イサベルは言葉を探し、「ありがとうございます」とだけ返した。涙は出ない。代わりに、胸の底に張りついていた冷えが剥がれる。
カタリナが干し肉を差し出すと、ディエゴは一口噛み、頷いた。
「カタリナ、塩が強すぎない。暑い朝に喉が怒らない加減だ」
カタリナは言った。「将軍のお口に合ってよかったです」
「俺の口は、塩で黙るほど素直じゃない」
「では、何で黙りますか」
カタリナの返しが早くて、ディエゴが笑った。女たちが一斉に息を吐く。その笑いが、部屋の空気をさらに温める。
ベルナルダが香草粥の椀を置くと、湯気が顔に当たった。草の青い匂いが鼻を抜け、舌に穏やかな苦味が乗る。
ディエゴは言った。「ベルナルダ、これがあると腹が落ち着く。薬草を知る女は、身体だけじゃなく気持ちの熱も冷ませる」
ベルナルダは「はい」と答えたが、胸元の布をそっと押さえた。冷ますと言われたのに、皮膚の内側は熱くなる。
食卓は次第に軽くなった。波が船腹を叩く音が一定の拍子になり、その上に皿が触れ合う乾いた音、匙が椀の縁を打つ小さな音が重なる。潮と香草と肉の脂、果物の甘い匂いが混ざり、部屋の空気が濃くなる。
薄い布一枚の肩が触れ合う。ひやりとした汗の湿りと、体温の熱が交互に伝わる。誰かが布を直すたび、指が鎖骨の近くをなぞり、目がそちらへ向きそうになって、慌てて皿へ戻る。戻したはずの目が、また戻ってしまう。
ディエゴが椀を持ち上げると、ルイサがもう一度水差しを近づけた。今度は震えない。だが、注ぎ終わっても手を引けず、杯の縁に指が残った。ディエゴの視線がそこへ落ち、ルイサの指先が熱を持つ。
ディエゴは小さく言った。「その指、冷たいな。船の水のせいか」
ルイサは答える前に、息を吸ってしまった。「……はい」
ディエゴは指先に落ちた水を自分の親指で拭い、さらりと言った。「なら、今は温めておけ。仕事が終わってから冷えるとつらい」
言葉は労いの形をしている。だが、温めるという音が、女たちの腹の奥をくすぐった。誰が笑うでもないのに、椅子のきしみが増えた。胸元の布を直す指が忙しくなり、息が浅くなる。
その沈黙に、カタリナが先に刃を入れた。彼女はわざと匙を落とした。金属が板を叩いて甲高く鳴り、全員の視線が音へ吸われる。
カタリナは素知らぬ顔で言った。「将軍、申し訳ありません。手が滑りました。海の湿りは厄介ですね」
その一瞬だった。ルイサは水差しを抱えたまま、ディエゴの横へ半歩踏み込んだ。背を丸め、耳元へ近づく。
ルイサは小声で言った。「将軍、ここは狭いので……動かないでください」
言葉の終わりが、吐息に溶けた。彼女は自分でも驚くほど速く、ディエゴの口元へ顔を寄せた。潮の匂いと汗の匂いが混じり、胸がきゅっと縮む。唇が触れる寸前、船腹を打つ波の音が遠のき、耳の中が熱で満ちる。
だが、イサベルの子が咳き込み、椅子ががたついた。イサベルが慌てて背をさすり、ルイサの体がわずかに揺れた。唇は届かない。代わりに、熱い息だけがディエゴの唇を撫でて消えた。
ルイサは顔を離し、笑う形を作った。「……水が跳ねました。失礼しました」
ディエゴは低く言った。「逃げ足が速いな」
ルイサの耳が赤くなる。成功しなかった悔しさが、そのまま次の火になる。
次に動いたのはイサベルだった。子を落ち着かせ、布で口元を拭ったあと、彼女は椀を差し出すふりでディエゴへ近づいた。指先が慎重すぎるほど慎重で、逆に危うい。
イサベルは落ち着いた声で言った。「将軍、唇に塩が残っています。荒れますから」
彼女は布を持ち上げ、口元を拭うふりをした。布の影に隠れる角度ができる。そこでイサベルは、唇をまっすぐ差し出した。逃げない。迷わない。布の陰で、ディエゴの唇に自分の唇を押し当てた。
短い。だが確かだ。塩気と体温が混ざり、胸の奥が熱くなる。離れるとき、イサベルの睫毛が震えた。
エレナが皿の数を確かめるために顔を上げた。年長の目が一瞬だけこちらを切る。イサベルは即座に布をずらし、何事もなかったように言った。
イサベルは言った。「ほら、取れました。海の塩はしつこいですね」
エレナは何も言わず、視線を外した。見たのか見ていないのか分からない。その曖昧さが、場をさらに熱くした。
勝負が始まったと、女たちは理解した。誰も口に出さない。だが、椅子のきしみが増え、息が浅くなる。ルイサは悔しさで唇を湿らせ、カタリナは笑いを噛み殺し、ベルナルダは香草の匂いを嗅ぐふりをして胸元の布を押さえた。
その熱の中心へ、シリマが音もなく入ってきた。彼女は椅子の後ろへ回り込み、ディエゴの背へ影のように寄った。先住民の身のこなしは音が少ない。床板が鳴る前に、気配だけが来る。
シリマは静かに言った。「将軍、背に塩が残っています。痒くなります」
ディエゴが振り向こうとしたとき、シリマは片手で彼の顎のあたりをそっと押さえ、視線を前へ戻させた。押さえ方は乱暴ではない。だが、ためらいがない。
シリマは囁いた。「今、皆が見ています。だから、動かないでください」
皆が見ている。だからこそ、盗む価値がある。シリマはディエゴの肩の上へ身を乗せ、耳元へ顔を寄せた。濡れた髪が首筋に触れ、汗の塩が近くで匂う。
シリマは言った。「あなたは、私たちを見てくれました」
その言葉の終わりで、彼女は唇を動かした。狙いはごまかさない。ディエゴの唇へ、まっすぐ重ねる。短いが、ためらいがない。触れた瞬間だけ息が止まり、離れた瞬間に波の音が戻ってくる。
キスは短かった。盗むように、確かめるように、唇を奪って、すぐに離れる。だが、部屋の空気はその一瞬で変わった。
カタリナが落とした匙を拾う手が止まり、ルイサが水差しを持ったまま固まり、イサベルの指が子の肩で止まった。ベルナルダは香草の匂いを嗅ぐふりをし、アナイラは目を伏せ、エレナだけが机の布を直し続けた。布を直す指が、ほんの少しだけ早い。
ディエゴは笑わなかった。笑えば冗談になる。冗談にされることが、今は一番残酷だと分かっていた。
ディエゴは低く言った。「大胆だな」
「森では、迷うと死にます」シリマは平然と答えた。「だから、迷いません」
ディエゴは椅子から立ち上がらず、ただ片手を伸ばしてシリマの手首をつかんだ。温度が確かめられるほどの力で、逃げ道をふさぐほどではない。
ディエゴは言った。「次は、俺の許しを取れ。だが、今の勝負は……お前が先だ」
その言葉が落ちた瞬間、空気が一段熱くなった。勝った者がいる。負けた者がいる。まだ終わっていない者がいる。女たちはそれぞれ、同じ卓に座ったまま、心だけを前へ出した。
ルイサは水差しを置き直し、目を上げた。涙ではない。悔しさでもない。次の一手を考える顔だ。
イサベルは子の頭を撫でながら、唇を結び直した。守る手で奪う。彼女の中で、その順番が入れ替わった。
カタリナは拾った匙を指先で軽く回し、口元だけで笑った。勝負なら、次は言葉で切るつもりだ。
エレナは淡々と言った。「将軍、そろそろ本日の見回りのお時間です」
彼女の声は揺れない。だが、その言葉が助け舟にも聞こえた。これ以上、朝食の卓で熱を上げれば、場が崩れる。
ディエゴは頷き、上着を取り上げた。肩へ掛けるとき、シリマの目を一度だけ見た。
「続きは、昼ではない」ディエゴは小さく言った。「お前たちが仕事を終えたあとだ。俺は逃げない」
朝の潮風が窓から入り、湯気を押して散らした。だが、部屋の中の熱は、散らなかった。椅子のきしみと、薄布の擦れる音と、乾いた唇を湿らせる小さな息だけが、しばらく残った。




