第24話(前編)――「赤道の島、珊瑚の王 」
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登場人物
新大陸皇帝アルバロ・デ・モリーナ〈29〉
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アルバロの側室
クダクワシェ・ムリロ〈36〉。トルワ国王の元正妻。
王妃らしい誇りと礼節を持ち、へつらわずに筋を通す。根は明るく、冗談と皮肉で場を軽くできる。暮らしの段取りを整えるのが好きで、侍女を褒めて菓子を分けるような面倒見もある。
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アルバロの側女
ムニャンガ〈34〉。金の量と相場を決める仲介の家の妻だ。秤と目方が身に染みつき、取引では相手の手元を黙って見てきた。結託を止めたが聞かれず、捕縛の瞬間は夫の袖を握ったまま指が白くなるまで震えていた。
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アルバロの側女
ニャメンダ〈27〉。上流の渡し場を押さえる首長の妻だ。漁と舟の一族の出で、舟の順番と渡しの間合いを作る実務を担っていた。襲撃の日、泥に足を取られて転ぶ女たちを見て叫び、捕縛後は子の名を呼び続けた。
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〔侍女1〕タリロ〈28〉。ルヤ川沿いの金の谷を束ねる首長の妻だ。陶器を焼く一族の出で、採り分けと勘定を任されていた。襲撃の日、倉の裏で子を抱えたまま捕えられ、喉に土埃の渇きが残った。
〔侍女2〕ルド〈19〉。サビ川支流の小さな金の谷の首長の妻だ。飾りのように扱われた反面、帳の内側で聞く話が多く、補給や見張り交代の数を指で覚える癖がついた。捕えられた直後、泣き声が途切れた静けさが怖く、声が出ず震えた。
〔侍女3〕チポ〈30〉。北の峠を押さえる首長の妻だ。蜂蜜と薬草に通じ、屋敷では見張りの食と水を回していた。襲撃の瞬間、戸口で子を押し戻し、土間に爪を立てて踏ん張ったが、縄がかかった。
〔侍女4〕ファライ〈41〉。南の峠を押さえる首長の妻だ。成人した息子が2人いる。布と塩の出入りを管理し、家を回してきた。夫が倒れた後、声が枯れるまで泣いた。
〔侍女5〕マサシ〈22〉。下流の渡し場を押さえる首長の妻だ。商人の言葉に囲まれて育ち、スワヒリ語の挨拶とポルトガル語の数詞を少し知る。矢筒の受け渡しを一度だけ手伝ったことが弱みになり、砲声の後は唇を結んで目を伏せた。
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(1524年10月下旬、夜明け前。ザイール川河口付近の港ムピンダ)
夜明け前のムピンダは、海と川が押し合う音で満ちていた。沖では大西洋のうねりが低く続き、河口へ寄るほど水面は細かく裂け、潮の匂いに湿った泥の匂いが混ざった。砂州の向こうに停泊した外洋船の帆は、暗さの中で灰色の板のように見えた。浜には丸木舟が並び、櫂が水をかく乾いた音が、ときどき近くで跳ねた。焚き火の煙が薄く漂い、燻した魚の匂いが腹の底に落ちてくる。
アルバロ・デ・モリーナは、積み上げた荷箱の脇に立ち、川面を見た。探索を終えて戻ったはずの河口でも、空気の手触りが前と違う。潮が強い。人の数も増えている。ソヨの男たちは浜の端で互いの顔を見て、肩で合図し合い、ポルトガル商人は少し離れたところで布と鉄具の箱を確かめていた。言葉の通じ方も、目つきの角度も、ここはいつも取引の場所であり、同時に、油断を試される場所だ。
船の甲板から、樽の木が鳴った。タールの匂いが夜の冷えで締まり、そこへ海風が塩を乗せて押し返す。水兵が縄を引くたび、麻の繊維がきしみ、指先の皮が少しずつ削れる。アルバロはその音を聞き、出港の段取りが頭の中で固まっていくのを感じた。サントメ島へ寄り、次は黄金海岸のミナ砦へ向かう。そこまで来れば、食料も水も、人も、しばらく落ち着いて整えられる。
ただ、船内の事情が変わった。側室のクダクワシェ・ムリロと、側女のムニャンガ、ニャメンダの腹が目に見えて丸くなり始めていた。潮の匂いにむかつく日もある。足を滑らせれば危ない。夜に気を張れば、眠りが浅くなる。アルバロは決めていた。今は母体と胎児が先だ。夜伽の役目から外し、船内で静かに休ませる。
ムリロは薄い布を胸元で押さえ、笑ってみせた。顔色は悪くないが、目の奥に疲れがある。アルバロが声を落として言うと、ムリロは頷いた。「分かりました。私は私の役目を変える。今は、守るべきものが増えました」 言い方が王妃のそれで、周りの女たちが少し背筋を伸ばした。ムニャンガは秤を扱う手つきのまま腹をさすり、ニャメンダは舟の順番を作る癖が抜けず、寝床の配置を先に目で測っていた。誰も反対しない。むしろ、ようやく息をつけると感じている。
その朝、5人の侍女が並んでアルバロの前に出た。タリロ、ルド、チポ、ファライ、マサシだ。潮風で髪が乱れても、彼女たちは手を洗い、布の端を整え、目をそらさず立った。長い航海で、甲板の掃除も、水の配り方も、食の順番も、彼女たちが回してきた。夜に泣き声を殺した者もいる。縄の痕を隠しながら、火の番を続けた者もいる。アルバロはその顔を見て、申し出の中身を先に察した。
最初に口を開いたのはタリロだった。声は落ち着いているが、喉に砂が残るような乾きが混じっていた。タリロはこう言った。「私たちは、ここまでの働きで、あなたの家の内側に立ちました。もう一歩、近い場所で役に立ちたいのです。側女として置いてください」 ルドは言葉が少ない代わりに、頷きの角度で同意を示した。チポは薬草の匂いがする袋を腰に下げ、ファライは年長の強さで列を崩さない。マサシは目を伏せたまま、口の中で数詞を並べる癖を止め、最後に顔を上げた。
アルバロは笑った。笑いは明るいが、軽い冗談だけでは終わらせない。彼はこう言った。「5人は少し多い。俺の腕が増えるわけじゃない。だが、お前たちの労苦は減らないままだった。働きに報いるのが筋だ」 浜の風が強まり、布がぱたぱたと鳴った。アルバロは一息置いて続けた。「側女にする。ただし、今の船は守るものが増えた。争いは船を沈める。俺は仲裁の名人じゃない。だが、放っておかない。起きたことはその場で片をつける。逃げない」 言葉が終わる前に、ムリロが小さく笑い、ムニャンガが肩の力を抜いた。ニャメンダは、縄の結び目を見ていた目を上げ、短く頷いた。
アルバロは、これまで妻や側女たちの間の揉め事で、何度も胃の奥を重くしてきた。誰かを立てれば別の誰かが沈む。沈んだ者は、目に見えない場所で恨みを育てる。彼はその繰り返しに疲れていた。それでも、女たちを捨てる気はない。捨てれば、航海も家も、すぐに別の形で壊れる。だから今回は、腹を決めた。大きな理想を掲げるのではなく、その都度、目の前の火を消す。争いの芽を見つけたら、先に踏む。仲裁ができるはずもないと分かっているからこそ、逃げないと口にした。
決断はもう1つあった。カーボベルデ諸島のサンチャゴ島へ向かう話は、いったん棚に上げる。ムピンダの浜で地図を広げ、指で海岸線をなぞり、アルバロは考えを変えた。今は長く走りすぎるより、腰を落ち着ける方が得だ。ミナ砦に留まり、黄金海岸からアンゴラ沿岸までを丁寧に探る。補給路を太くし、寄港地の顔ぶれを揃え、必要なら、またミナ砦へ戻る。そうすれば船内の女たちも休めるし、腹の大きい者を危ない波にさらさずに済む。
アルバロは部下たちを呼び、短い号令ではなく、順に説明した。船の積み替えの順番、淡水の樽の置き場、薬草の保管、夜の見張りの交代。ムリロは侍女たちに菓子の乾いた欠片を分け、ファライは年下の手に水桶を渡し、チポは胃を落ち着かせる煎じ薬の葉を選び、マサシはポルトガル語の数詞を小声で唱えて荷の数を合わせた。ルドは、船内の静かな場所を見つけ、孕んだ3人の寝床に布を二重に敷いた。海が荒れる前提で、身体がずれないように端を縛る。小さな工夫が積み重なり、船の中が少しずつ明るく、暮らしの形に近づいた。
日が上がり始め、河口の水が銀色に変わった。浜では、子どもが走り、犬が魚の骨をくわえて逃げた。遠くで太鼓の音が短く鳴り、取引の開始を知らせた。アルバロはムピンダの匂いをもう一度吸い込み、口元を上げた。潮と煙と木と汗の匂いだ。ここは彼の家ではないが、彼の道の途中にある確かな足場だ。船が動き出す。サントメ島へ向かう帆が上がり、次はミナ砦で腰を落ち着ける。明るさは、無理に笑うことではなく、やることを決めて手を動かすことから生まれる。アルバロはその明るさを、今度は船全体に回していった。
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※注:以下に出てくる『ベニン王国』は、現代のベナン共和国ではない。ギニア湾北岸から内陸に入ったところに王都を置く、15〜16世紀の王国である。
ムピンダを離れると、海はすぐに色を変えた。川の濁りがほどけ、青が深くなり、塩が舌に残った。帆が風を受けるたび、綱が軋み、滑車の木が短く鳴った。甲板は夜露で冷たく、日の出とともに温かくなり、タールの匂いが立ち上がった。
船の中では、腹の大きい3人が波の強い時間帯を避けて横になり、残りの女たちが手を回した。水桶の位置がずれる前に縄を締め直し、薬草の袋は濡れない梁へ吊るし、乾物は匂いで確かめた。誰も声を荒げない。決めたことが、もう船の決まりになっていた。
サントメ島が見えたのは、空が急に重くなった日の午後だった。雲が低く垂れ、雨が糸のように落ちた。島からは甘い匂いが流れてきた。焼けた木、湿った土、煮詰めた汁の匂いが混ざっている。浜へ近づくと、丸木舟が波間を縫い、肌の黒い男たちが肩で合図を送り合った。岸の奥では、鉄を叩く音が途切れず、鳥の声が大きい。
アルバロはサントメの役人と短い挨拶を済ませた。ここは長居をする場所ではない。水と薪、乾いた食料を買い足し、塩を補い、通訳を1人増やした。ベニン王国へ行くには、言葉だけでは足りない。誰に会うか、誰を通すか、その順番を知る者が必要だった。
贈り物の箱も、ここで組み直した。布は湿気を嫌うので油布で包み、ガラス玉は布の袋に小分けし、金属は油を薄く塗って錆を止めた。アルバロが選んだのは、相手の目に残り、手に残る品だった。赤い布と青い布、鏡、刃の立つ小刀と鋏、銅の輪、香りの強い酒。さらに、新大陸から持ち込んだ乾いた葉と豆も加えた。甘く炒れば香りが立つ豆、煙にすれば強い匂いを吐く葉だ。珍しいものは、話の種になる。話の種は、席の力になる。
サントメを出ると、海はまた広くなった。赤道に近い風はぬるく、肌が汗を覚えるのが早い。夜になると星が近く見え、海面に細かい光が散った。魚が跳ね、波の音に混じって、甲板のどこかで誰かが笑った。アルバロはその笑いを止めなかった。笑いが出るうちは、船は折れない。
数日後、北の海岸が帯のように見えた。低い陸に木が並び、川口が黒い切れ目になっている。潮の匂いに、泥と葉の匂いが混じった。砂州の外で船を止め、小舟に分乗した。海から川へ入る瞬間、波の硬さが消え、水が粘るように変わる。櫂が水を押すと、重く、静かに進んだ。マングローブの根が水から突き出し、鳥が枝を渡った。蚊の羽音が耳元にまとわりつき、汗が首筋を滑った。
川口の集落で待っていたのは、王の使いだと名乗る男だった。首には珊瑚色の玉が連なり、布は濃い色で、足元の土は赤い。男はアルバロの目をまっすぐ見て、通訳を挟んで言った。「海の客は、王の言葉を通して入る。贈り物は、言葉の先に置く」 脅しではない。決まりを告げているだけだ。アルバロは頷き、贈り物の箱を1つ開けさせた。鏡に空が映り、周囲がどよめいた。ガラス玉が掌で鳴り、銅の輪が鈍く光った。男の口元がわずかに上がった。
そこから先は、川と陸の旅になった。舟で上がれるところまで上がり、あとは赤土の道を歩く。湿った草の匂いが強く、足を置くたび土が柔らかく沈む。背の高い木の下は暗く、陽が差すところは白く眩しい。荷を担ぐ者たちは黙々と歩き、時おり喉を鳴らして水を飲んだ。遠くで太鼓が鳴ると、道の脇の人々が顔を上げ、列の長さを数えた。
王都が近づくと、空気が変わった。煙の匂いが増え、焦げた土と油の匂いがする。金属を焼く熱が風に混じり、槌の音が腹に響いた。道は広く、真っすぐで、人の流れが切れない。市場では胡椒の刺激が鼻を刺し、乾いた魚の匂いが濃く、果物の甘い匂いがそれを押し返した。布の色が多く、声が多い。目が追いつかないほどだった。
宮殿の前に出ると、音が一段深くなった。太鼓は低く、鈴は細く、掛け声は短い。大きな傘が影を落とし、武器を持った男たちが列を作った。アルバロは足を止め、姿勢を整えた。新大陸皇帝としての威厳は、ここでは押しつけになりやすい。親善の挨拶なら、最初の一歩は相手の決まりに合わせる方が強い。
アルバロはこう言った。「海を越えて来た。争いではなく、顔を見て言葉を交わすためだ。港と道を借りた礼として、品を持ってきた」 通訳が言葉を継ぎ、王の側近が一つずつ意味を確認していく。贈り物は順番が大事だった。布、金属、鏡、酒、そして新大陸の豆と葉。最後に、鮮やかな羽根を束ねた飾りを出した。光の当たり方で色が変わり、場が小さくざわめいた。
やがて奥から王が現れた。珊瑚色の飾りが首と腕に重くかかり、布は厚く、目は動かない。王は言葉を急がず、贈り物を見て、匂いを嗅ぐように息を置いた。アルバロの持参品は、異国の派手さではなく、使えるものと、語れるものの取り合わせになっていた。王が頷くと、周囲の緊張が少しほどけた。
返礼が運ばれてきた。象牙の白さがまず目に入った。滑らかな彫り物で、触れると冷たい。真鍮色の品もあった。光は柔らかいが重みがあり、叩けば鈍い音がする。豹の皮は艶があり、毛並みが指に逆らった。香辛料の袋は小さいのに匂いが強く、開ける前から鼻が熱くなった。さらに、赤い玉の首飾りが箱に納められていた。王の国の色が、そのまま形になっている。
王の側近が告げた。「王は、海の客を歓迎する。道は貸す。だが、道には名がある。名を守る者だけが、また来られる」 アルバロは笑って頭を下げた。「名は守る。俺は約束を守る方が得意だ」 場に短い笑いが起きた。重い儀礼の中で、笑いが出るのは良い兆しだった。
その日の夕刻、宮殿の外の空は赤く焼けた。市場の煙が薄く流れ、胡椒の匂いがまだ鼻に残る。アルバロは、握りしめた象牙の冷たさを掌で確かめた。海の風と、川の湿気と、王都の熱が、1つの旅になって体に残っている。親善の挨拶は済んだ。次は、ミナ砦に戻って腰を落ち着ける。その決断は変わらない。ただ、戻る道の途中に、確かな顔が1つ増えた。それが今夜の収穫だった。




