第七章第12話(後編)――「裂けた岩、金の筋」
夕方、川の曲がりが見えた。流れは大きく回り込み、内側の岸に黒い砂が厚く溜まっている。水面は夕日を割って揺れ、石はぬめりを帯びて鈍く光った。鼻に入る匂いが変わる。湿った土の匂いの奥に、石を擦ったときの乾いた匂いが混じった。
ニャシャは岸の内側へ降り、膝まで水に浸かった。手で砂を掬うと、水の中で黒い粒がふわりと舞う。彼女は川底の石の形を確かめ、指先で曲がりの一番深いところを示した。「ここだ。流れが回って、重いものだけ残る」
ディエゴは頷き、兵に合図した。声は荒げない。水音が大きく、怒鳴っても意味がない。ディエゴは言った。「皿を並べろ。籠を用意しろ。見張りは上だ。岸に背を向けるな」
木の皿が水面に浮かび、兵の手が同じ動きを繰り返す。砂を載せ、ゆっくり揺らし、軽いものを流す。最初は誰もが早く振り、金まで一緒に逃がした。ニャシャは苛立たず、手首の角度だけを指で示す。言葉は短いが、言っている中身ははっきりしていた。ニャシャは言った。「強く振るな。水に選ばせろ。皿は小さく回す」
皿の底に残る黒い砂の間で、点のような光が増えていった。小さいのに、目が離れない。兵が息を呑む音が、川音に紛れて聞こえた。マダレーナは男の手を叩き、落ち着かせた。「見ている暇があるなら、手を動かせ。腹が鳴る前に終わらせろ」
日が落ちるころ、皿の列は川辺に長く伸びた。火を焚かない。煙は遠くからでも見える。代わりに、石の割れ目に油布を当て、灯りを隠して使った。光は弱いが、それで十分だった。金の粒は小さくても、光の差で生き物のように浮き上がる。
ニャシャは川から上がり、濡れた足で赤土を踏んだ。土は黒く沈み、すぐに乾いて表面が粉を吹いた。彼女はディエゴの目をまっすぐ見た。「砂金はここでも取れる。けれど、本当に量が出る場所は別だ。川が金を運んでくる元がある。岩の中だ」
ディエゴは言った。「岩の中は、どうやって開く」
ニャシャは少し黙り、川上の山を見た。「白い石がある。白い筋が岩に刺さっている。そこに金が入る。昔、王はそこを隠して、近づく者を殺した。今も見張りがいる。私が連れて行けば、私が裏切り者になる」
ディエゴは言い切った。「連れて行け。裏切り者にさせるなら、俺が守る」
その言葉は優しさではない。所有の言葉だ。それでもニャシャの顔は、ほんの少しだけ動いた。彼女は頷いた。「夜に行く。昼は目が多い」
夜、列は川を離れた。歩く音を消すため、革を巻いた足で行く者もいた。木々の間は湿り、葉が肌を撫でて冷たかった。虫の羽音が耳元にまとわりつく。汗は出るのに、背中が冷える。ニャシャは前を行き、星の見え方と風の匂いで方向を決めていく。
岩場に近づくと、空気が変わった。土の匂いが薄れ、石の匂いが強くなる。濡れた岩は冷たく、手を当てると指先の熱を吸っていく。ニャシャは崖の下で止まり、指で岩肌の筋をなぞった。暗い中でも分かる白い線が、岩に走っていた。
ディエゴは耳を澄ました。水音はない。かわりに、人の息がある。草の擦れる音が、近くで一度だけした。
次の瞬間、背後から何かが飛びついた。ニャシャの肩が引かれ、口を塞がれる。短い呻き声が漏れ、すぐ消えた。影が2つ、3つ動く。木の棒と石の刃の匂いがする。火の匂いではない。生身の匂いだ。
ディエゴは躊躇しなかった。ディエゴは低く言った。「灯りを消せ。前の2人、右へ回れ。残りは俺の後ろだ」
闇の中で、金属のこすれる音が短く鳴った。剣が鞘から抜ける音だ。ディエゴは一歩で距離を詰め、ニャシャを掴んでいる男の腕を切った。温い血が手に飛び、鉄の匂いが鼻を刺す。男は声を上げる暇もなく膝をついた。
ディエゴは叫ばない。叫べば矢が来る。彼は息だけで命令を出した。「生かせ。逃がすな。首は取るな。口を残せ」
兵が2人、影を押さえつけた。土を掘るような鈍い音が続く。石の刃が地面に落ち、カラン、と乾いた音を立てた。ニャシャは息を吸い、肩で呼吸していた。喉を塞がれていたせいで、声が出ない。
ディエゴはニャシャの口元の手を払ってやり、顔を近づけた。ディエゴは言った。「怪我は」
ニャシャは咳き込み、ようやく声を戻した。「私は平気だ。だが、こいつらは村の者だ。私が国を売ったと決めた」
押さえられた男は唾を吐き、言葉を吐いた。通訳が拾い、ディエゴへ伝える。裏切り者、白い肌の犬、王の女を奪うな。怒りは単純で、だから怖い。
ディエゴは男の顎を靴で上げ、目を見せた。ディエゴは言った。「お前の王は死んだ。今は俺がここにいる。俺の前で噛みつくな」
男は睨み返したが、兵に腕を捻られて呻いた。ディエゴはそのまま言った。「連れて帰れ。明日、見せしめにする。だが、女を襲ったことは広めるな。広まれば、また来る」
ニャシャはその言葉の意味をすぐ理解した。恐怖で縛るより、目を減らす。群れを小さくする。ディエゴは残酷だが、手順が冷たいほど正確だった。
崖の下に戻ると、夜はさらに冷えていた。ニャシャは肩の土を払った。肌に擦り傷があり、そこへ汗がしみて顔がわずかに歪む。ディエゴは革袋から布を投げた。「巻け。血が出れば匂いで寄る」
ニャシャは布を受け取り、黙って巻いた。巻き終えたあと、彼女はディエゴを見た。視線に熱がある。怯えだけではない。助かったという現実が、体に残っている目だ。
翌朝、夜露が乾くのを待って作業に入った。霧が残る間に火薬を扱うのは危ない。湿り気は火を弱くし、予想を狂わせる。ディエゴは最初に、岩の前へ兵を並ばせた。彼はニャシャが示した白い筋を見た。白い石は硬く、槌で叩くと乾いた高い音が返る。
ディエゴは言った。「まず孔を開ける。鉄の棒で叩け。深くしすぎるな。石が割れる位置を探る」
兵が交代で槌を振る。カン、カン、と音が続く。腕が痺れ、握力が抜ける。汗が目に入り、しょっぱくて痛い。石粉が舞い、鼻の奥に張りつく。咳をすると胸の奥がざらついた。
孔がいくつか開いたところで、ディエゴは火薬袋を持たせた。ここからは原住民には任せない。火薬の扱いは経験が要る。怖さも要る。怖さがない者は近づきすぎて死ぬ。怖さが強すぎる者は手が震えて失敗する。
ディエゴは兵の顔を見て言った。「耳を塞げ。目を閉じるな。合図があるまで近づくな」
火薬は孔へ入れ、上を土と粘り気のある泥で塞いだ。細かい手順は口で説明しない。目で見せ、手で止める。ニャシャは少し離れた岩陰から見ていた。彼女の村では、こんなことはしない。石を割るには時間がかかりすぎる。王もやらせなかった。恐れるからだ。
全員が下がった。風が通り、冷たい。鳥が一声鳴いて飛び去る。次の瞬間、腹の底へ来る音が響いた。ドン、と地面が揺れ、岩肌が一気に裂けた。空気が熱を帯び、硫黄のような鼻を刺す匂いが広がる。石が弾け、細かな破片が雨のように落ちた。髪と肩に当たり、痛い。
煙が薄れていくと、割れた岩の中に白い筋が露出していた。白い石は割れ目で光を拾い、その中に黄色い点が散っている。砂金の点ではない。石に噛みついたような、動かない光だ。
カタリーナが声を漏らした。「石の中に、金がある」
ディエゴは近づきすぎない。まだ石が落ちる。彼は言った。「待て。上を見ろ。割れた岩は落ちる。落ち着いてからだ」
落石が止んだあと、兵は鉄の道具で岩を崩し始めた。ガリ、と硬い音がして、欠片が落ちる。欠片の断面に金色が走る。触ると冷たく、指に白い粉がつく。粉は苦い匂いがして、舌が乾く。
ディエゴは作業を段に分けた。まず砂金の皿を止めずに続ける班。次に、露出した白い筋の周囲を崩して籠へ入れる班。最後に、次の孔を開ける班。どれも止まれば全体が止まる。止まれば矢が来る。だから彼は、止まらない形を作った。
ニャシャは岩の割れ目を見つめていた。目の前で山が開き、金が姿を見せた。その現実が、彼女の顔から言葉を奪っていた。しばらくして、彼女は小さく言った。「王は、これを隠した。隠せば守れると思った。だが、あなたは割った」
ディエゴは言った。「隠したものは、いつか奪われる。最初から掘って運べばいい」
ニャシャはその言い方に、少し苦い顔をした。それでも視線は外さない。彼女は続けた。「ここなら、川より何倍も出る。だが、見張りが来る。私の村も来る。私は、もう戻れない」
ディエゴは頷いた。「戻るな。ここに残れ」
ニャシャは問い返した。「私は捕虜だ。縄をつけられた女だ」
ディエゴは言った。「お前は案内役だ。必要な女だ。俺の前で誰にも触らせない。昨日みたいな真似をしたら、その場で殺す」
言葉は荒い。だが約束ははっきりしている。曖昧に濁すより、彼女には分かりやすかった。ニャシャは唇を結び、やがて小さく頷いた。
その日の終わり、籠は何度も運ばれ、積み上がった。石粉で全員の顔が白くなり、眉の汗が筋を引いた。手は震え、指の腹は擦り切れて痛む。疲れは重いのに、目だけが冴えている。金の光が、頭の奥を熱くする。
日が沈むと、ディエゴは火を隠し、見張りを増やした。ニャシャは岩の近くで座り、膝を抱えた。彼女の足元には、乾いた赤土と白い石粉が混ざっている。匂いは土と硝煙と汗だ。彼女はそれを吸い込み、ディエゴを見上げた。
ニャシャは言った。「私は、あなたを憎むはずだった。王を殺したからだ。だが、あなたは私を殺さなかった。あの夜、助けた。だから私はここへ来た。金の場所を、あなたに教えた」
ディエゴは言った。「教えたのは、お前が生きるためだ」
ニャシャは言った。「それでもいい。生きるために、私はあなたの側に立つ」
川の音は遠い。代わりに、岩を削る音がまだ耳に残っていた。明日も削る。明日も割る。危険で、汚れて、体が壊れる仕事だ。だが、ここから先はディエゴの手で変わる。原住民が恐れて近づけない場所を、火薬と鉄で開く。ニャシャはその光景を見てしまった。もう目をそらせない。




