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◆ ◇ ◆
ガバリと瞼をこじ開ける。
そこには見慣れた天井があった。だけどなんだか懐かしい気もする。
…あれ、ぼく…どうしたんだっけ?
まだ頭に上手く血が回っていないのか、状況の理解ができない。
ぼくは自分の部屋のベッドに眠っていた。別にそれはおかしいことではないのだけれど。
でも、違和感。
だってぼく、さっきまで…
「……ッ!!」
思い出すと同時に勢いよくふとんから起き上がる。
「…ッ、痛…!」
急に起き上がったからか、頭に痛みが走り思わず抱える。心なしか体も重い。呼吸も荒く上手く酸素を取り込めない。
そうだでも、これは、ぼくの…ぼくの、体だ。
――元に、戻ったんだ。
「…でも、なんでこのタイミングで…っ」
ぼくはさっきまで、学校で…学校の放送室のマイクを奪って、校内アナウンスを乗っ取っていた。
そして、打ち明けた。
ぼくと月子ちゃんがいじめられているという事実と、それから桜塚たちの、名前を。
ぼくの記憶はそこで途切れていた。
「…月子ちゃん…」
ぼくが元に戻ったということは、きっと月子ちゃんも目覚めたのだろう。戻って、きてくれたんだ。
でも、そうすると今は…
「…学校…」
あんな、状態で。月子ちゃんだけを学校に残してしまった。
それはぼくにとって、想定外の出来事だった。このタイミングで元に戻るなんて、思っていなかったんだ。
込み上げる不安に吐き気がした。だけど吐いてる場合じゃなかった。
急いでベッドから這い出て、適当に着替えて学ランだけ羽織る。
学校に行くなら、定期…カバンは、どうしたっけ。
痛む頭を押さえながら、あたりを見回す。カバンは机の脇にかけられていて、そして机の上にあるぼくの携帯が、チカチカと光っていた。
デジャヴだ。もちろんいい予感はしない。
結局この携帯電話は、悪い報せしか運んでくれない。だけど少し前までぼくは、死ぬほどこれが大切だった。手元にないと不安で仕方なかったんだ。今となっては理由もよく、わからないけれど。
ぼくは自らを嘲るように少しだけ笑って、携帯電話を手に取る。メールが1通だけ届いていて、送信元は案の定、桜塚だった。
その内容を確認し、携帯電話をまた机の上に戻す。
そして部屋を後にした。
「陽太…!?」
部屋を出た所で、自分の名を呼び止められる。
呼ばれた方に振り向くと、玄関の門の向こうに晃良兄さんが居た。
「晃良兄さん…っ、どうして…」
まさか平日のこんな時間に居るとは思わなかったので逆にこっちが驚いた。
玄関先に居た晃良兄さんは、いつものビシっとしたスーツじゃなくて、ジーンズとシャツという珍しいくらいにラフな格好だった。しかも少し汚れているから余計に、別人かもと思ったほどだ。
「お前、体は大丈夫なのか…!」
ぼくの顔を見た途端、晃良兄さんが声を荒げる。その様子にびっくりして、思わず足が竦んだ。
晃良兄さんがこんな大声を出すなんて、初めてだった。怒られると本能的に悟ったぼくは、どんな顔をしていただろう。
晃良兄さんは大股で、ぐんぐん距離を縮める。
「ずっと目を覚まさなくて…っ 心配、し…ッ」
すぐ目の前まできた晃良兄さんの、言葉の最後は上手く聞き取れなかった。
気がついた時には晃良兄さんの、腕の中に居たから。きつく強く、抱き締められていたから。
「…にい、さ…」
母さんにも、勿論父さんにも。こんな風に抱き締めてもらったこと、ない。
「あのまま…もう目を覚まさないかと…思った…!」
その声が、あまりにもか細くて。ぼくの目からは知らず涙が零れた。
「…ごめん…」
無意識にそう、呟いていた。だけどずっと、ずっと言いたかった。
「ごめんなさい…」
兄さんの大きな体が小さく震えていた。だけど昔みたいに、見上げるほど大きいわけではない。
ぼくも、大きくなった。いつの間にか身長も追いついてきているし、手も足も長く伸びた。それでも敵わない部分もたくさんあるけれど。
小さい頃、10も離れた兄さん達は、兄というよりもっと遠い存在のように思えていた。それはまるで父親のような。近くて遠い、存在だった。
その背を追いかけるだけの、この背を押してもらうだけの。
だけど今は、違う。こんなに近くに居てくれる。
同じ血を、熱を、そして痛みを。ぼくはもう二度と、間違えたりしないだろう。
もう、絶対に。
「…出かけるのか?」
ふと体を離したながら言った兄さんに、ぼくはこくりと頷く。
「今行かなかったら…ぜったい、後悔する…どうしても、助けたい子が…守りたい子が、居るんだ…」
行って何ができるかはわからない。やっぱりぼくには、何もできないかもしれない。でももうそんなこと、今までだって何百回も、何千回も思ってきた。そして結局何も、しないで来たのはぼくだ。
やらないことと、やろうとすることは、違う。ぜんぜん、違うんだ。
「ぼく…また、兄さんや父さんや母さんに、迷惑をかけるかもしれない…恥をかかせて、笑われて、病院や名前に泥を塗って…もうそんなの十分してきたけど、だけど…だけどどうしてもぼく…っ 守りたいんだ…!」
行きたいんだ、できることがあるなら何かしたい。今すぐ傍に駆け付けたい。
それは誰でもない、自分自身の為に。
「…おれ達家族よりも、か…?」
兄さんがまっすぐぼくを見つめて訊いた。ぼくも目を逸らさずに迷いなく、答えた。
「うん…!」
それは最低なことかもしれない。
家族が大事じゃないってわけじゃない。
ただまっすぐ、目の前にあるものを、守りたい。
大切だって思うものを、この手で。
「その代わり、今度はぼくも、一緒に背負う。この家に降りかかる誹謗や中傷や暴力を…もうぼく以外の人だけに、押し付けたりしない…もう逃げたりせず…償うよ……!」
ぼくは、変われた? あの頃から少しでも。
そうだとしたら本当は一番に、日向兄さんに見てもらいたかった。
「…ちょっと待ってろ」
兄さんはそれだけ残して、さっき居た場所に踵を返す。それから玄関の門の外からぼくを呼んだ。ぼくはなんだろうと思いながら、駆け寄る。
「……日向が使っていたやつだ。高校入学祝いに、父さんに買ってもらった。物置にずっと入れっぱなしで…でも油も差したしチェーンやタイヤも交換したから、走れる」
そこには青い自転車があった。少し塗装は剥げているけれど、そこまで使い古されたカンジはしない。
当たり前だ。使い古される前に主人を亡くしたのだから。
「途中でほっぽり出したのは…何もできなかったのは、おれも同じだ」
兄さんが、少しだけ笑う。
「行ってこい」
「…っ、うん…!」
ふと兄さんの目が何かに気付いたように玄関へと向く。その視線を追うと、玄関の扉を開けたそこに母さんが居た。
どくりと大きく心臓が鳴った。でももうそれを、逃げ出したいとは思わなかった。
「…日向…?」
「…母さん…」
そう呼ばれることに、慣れてしまっていた。自分の名前ではなく、死んだひとの名前で呼ばれることに。
だけどもう、傷つかない。
傷ついていたのは母さんも、兄さんも、きっと父さんも。みんな、同じなのだから。
「…出かけるの…?」
母さんがどこかおぼつかない足取りで、こちらへと歩み寄る。兄さんがぼくを背に庇うように、ぼくの前に立った。
「…うん…学校に…」
「そう…今日は何時頃、帰ってくるの…?」
何かを感じ取った母さんが、不安げに表情を曇らせる。その白くて細い腕が、彷徨うようにこちらへ伸びてくるけれど、その手をとったのは晃良兄さんだった。
ぼくは母さんを見つめたまま、零れる涙をそのままにできるだけ優しく答えた。
「…“日向”はもう…帰って、こないよ…」
ごめんね。ぼくのせいで、また傷つけてしまうね。ぼくがずっと、弱かったせいで。
母さんはぼくよりも、日向兄さんに帰ってきて欲しかったよね。だけど。
「もう二度と…帰ってこないよ」
母さんは一瞬わけがわからないといった表情を見せ、理解できないとでもいうように頭を振る。もがく腕を兄さんが押さえ込んだ。ぎゅっと。
「行け、陽太」
「…っ、うん…っ」
それから母さんに背を向ける。涙はもう止まっていた。哀しくないわけじゃないけれど、もっと大事なことがあったから。
自転車のスタンドを下ろし、跨る。サドルの位置は直す必要もなくピッタリだった。
「…陽太!」
門の向こうで、兄さんが叫んだ。ぼくは頭だけで振り返る。もう左足はペダルを踏み込んでいた。
「誕生日…おめでとう」
ぼくは笑って頷き手を振った。
「いってきます」
生まれ変わる。ぼくはぼくのままで、新しい自分に。
風をきって自転車を走らせる。
そういえば自転車で学校に行く順路を、ぼくは知らない。だけど迷いなくペダルを漕いだ。風が後押ししてくれるままに。
――日向兄さん。
この世界に“日向”を縛り付けていたのは、きっとぼく達だ。あの部屋にも、家にも、学校にも。
日向兄さんはまだ居るんだ、て。そう信じ込ませないと、壊れてしまいそうだったから。
でも、もう、いいんだ。
日向兄さんがいなくても、ひとりでも。ぼくにもできることが、あったから。ぼくを助けてくれる人が、すぐ近くに居てくれたから。
そうして生かされてきたこの世界で、大切な人に出会えたから。
自分から部屋から出た。あんなにイヤだった学校にも行った。一度は逃げた道を引き返したりもした。自分ひとりでは行けなかった場所に、行けるようにもなったんだ。
自転車にも乗れた。ごはんも自分から食べれるようになった。右手首の傷は、あれから増えてないよ。本当だよ。
他人の気持ちを、考えるようになった。今更ながらに、守られていることを知った。
…それから。大事なひとが、できたよ。
ちっぽけだけどぼくの手で、ちゃんとぼくの、この手で。
守りたいひとができたよ、兄さん。
月子ちゃんもおんなじだと思った。
死んだ人間に縛られて、縛って。抜け出せないでいる。
…本当は。謝れたらどんなにいいだろう。お父さんと仲直りさせてあげられたら。
きっと伝えたいのはたった一言なのに、それはどうしたって伝わらない。届かない。
ぼくもそう、何度も思ってきた。日向兄さんに、謝りたいって。――会いたいって。でもそれは、決してできない。どんなに願ったって、望んだって。
ぼくが…ぼく達が超えていかなきゃいけないのは、きっとそういうもの。
立ち向かうべき最後の敵は、桜塚や堀越恭子やこの残酷で理不尽な世界なんかじゃない。
誰かを恨んだり自分を嫌いになるより、自分を、好きになりたい。
そしてきみの隣りに居たい。
同じ世界できみと、笑い合う未来がみたいんだ――
だからお願い、あともう少しだけ…そこで、見守っていて。
ぼくに、勇気を、彼女を守る力を…一緒に、願っていて。
あとはぼくひとりで、なんとかしてみせるから。
…見ていて。




