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「いつまでアイツ、部屋で寝かせとく気だよ」
朝食後、部屋のドアの前で突然かけられた声に振り返る。そこには不機嫌そうな顔をした朔夜くんが居た。
確か朔夜くんはすぐ隣りの部屋だ。ごはんを食べてすぐに席をたってしまっていたけど、ぼくが部屋に戻るのを待っていたのかもしれない。
朝食の際に、もう体調は大丈夫だとみんなに伝えた。月子ちゃんのお母さんは、心底ほっとした顔で微笑んでいた。
今日は仕事を既に休んでいてくれたらしい。朔夜くんも、バイトを休んでくれていた。久しぶりの家族揃っての朝ごはんだと、弦くんは嬉しそうだった。
それから弦くん達を学校に送り出し、月子ちゃんのお母さんは瑠名ちゃんを幼稚園に送り届けに出ている。いまこの家には朔夜くんとふたりきりだった。
…訂正。意識のないぼくの体にいる月子ちゃんとの、3人きりだ。
「そりゃあ感謝はしてるけど…アイツは他人だろ、わざわざ泊めてやる必要あったのかよ、しかもお前の部屋に」
「あ、えっと…」
ぼくは内心焦りながら、言葉に詰まってしまう。
月子ちゃんの部屋ではまだ、“ぼく”が眠っている。起きる気配はやはりなかった。
「あの、もうすぐ、迎えにきてもらう…ことになってる…」
月子ちゃんらしくない、歯切れ内の悪い口調。未だにぼくは、ちゃんと月子ちゃんのふりを上手くできない。朔夜くんがじっと、その目でぼくを見つめる。
「…ならいいけど……なんか最近お前、おかしくねぇ?」
「え…っ な、なに、が…?!」
ダメだ、またどもる。特に朔夜くんを相手だと、どうしてだか全く誤魔化せる気がしない。
たぶん朔夜くんが、見るから。まっすぐぼくを見るから。
…ああ、そうか。ちがう。朔夜くんが見てるのは、月子ちゃんだ。
「ひとりでも平気っつってたお前があんなヤツと一緒に居るなんて、おかしいだろ、接点もなさそうだし。何かあったら、俺に言えって、言っただろ」
「……う、ん…」
壁に背を預けながら、朔夜くんがガシガシと頭をかく。ほとんど年の変わらない、少年の顔だ。ぼくと同じ、男の子だと思った。
「あの…朔夜く…、朔夜は、あたし、のこと…どう、思ってる…?」
「……はぁ?!」
ぼくの突然の問いに、朔夜くんは勢いよくガバリと顔をこちらに向ける。よっぽど予想外の質問だったのだろう。顔が真っ赤だ。
「な…! なんだよ、どうって…!」
「あ、あの…お姉ちゃんとして…どうなのかなって…その、ほら、いつの間にかみんな、“お姉ちゃん”て呼ばなく、なったでしょう…?」
月子ちゃんはずっと…自分が長女という責任とプレッシャーに押し潰されそうになりながらも、自分が信じる道を歩んできた。
だけどもうそれが、信じられなくなってしまったんだ。
だから多分、拒否してしまった。自分という存在を。
月子ちゃんの強い想いは、きっとぼくの体に持っていけなかったんだろう。ぼくは目覚めてから少しだけ、月子ちゃんの心の中を垣間見ることができた。月子ちゃんの体に残る、想いを。
「あたしは…お姉ちゃんとしてちゃんと、できてたのかな…」
ぼくは末っ子で、家も裕福な方で、何不自由なく甘やかされて育ってきた。
医者の家系として、勉強や教養は必要最低限強いられてきたけれど、それも別に苦じゃなかった。欲しいものはなんでも与えられた。
兄に手を引かれて、安全な道をいつも。ふたりの後をいつもついて回っていた。
兄が先に進むその道には、危ないものなんてほとんどないと思ってたんだ。
あの学園で、桜塚達に出会うまでは。
ぼくがいじめに遭っているって気付いてくれたのも、学校まで乗り込んで、担任の教師と話してくれたのも、ぼくを探してくれたのも、助けてくれたのも…ぜんぶ、日向兄さんだ。
でもそれを、日向兄さんはどう思っていたんだろう。
長男としての、義務だろうか。特にこんな、歳の離れた甘ったれた弟。もしかしたら本当は、ぼくのおもりなんか嫌だったのかもしれない。ぼくのことなんか、嫌いだったんじゃないのだろうか。
…でももうそれは、知ることはない。日向兄さんに訊くことも確認することもできない。日向兄さんはもういないのだから。
「ずっと…嫌われてると、思ってきた、の…そしたら上手く、笑えなくて、話せなくて…ずっと…ひとりぼっち、みたいだった…」
月子ちゃんはぼくみたいに、簡単に逃げ出したり吐き出したりしなかった。
きっと月子ちゃんにとってはこれが初めての、“逃げ”なんだ。
こんな風に、なるまでの――臨界点。
「俺、は…」
朔夜くんの視線がゆっくりと下がる。ぎゅ、とその拳を強く握ったのが視界の端に映る。
「俺は、…月子のこと、“姉”なんて思ったこと、ねぇよ…初めて会った時から、ずっと。だけどそれは、月子が“姉失格”だとか、そういうわけじゃない…ずっとひとりだと、思ってたのは……俺のほうだ」
初めて聞く、朔夜くんのこんな小さな声音を。
「なぁ、覚えてるか…? 俺たちが、初めて会った日のことを。俺が6さいで、月子は7さいだった。弦はまだ5さいで…満と望が生まれる少し前。俺は…両親を火事で亡くして…この家に、ひきとられることになった」
どく、と。心臓が鳴る。
それはぼくが、ぼくなんかが。聞いていい話じゃ、立ち入っていいものなんかじゃ、なかった。
途端に後悔に襲われる。だけど朔夜くんは続ける。
「俺の父さんと月子の父さんは、高校時代の部活仲間で…親友だって、言ってた。1度だけ、この家に遊びにきたこともあった。月子は覚えてるかわからないけど…一緒に星を、見たんだ。6さいの時…いろんなことがいっぺんにあって、家も家族もなくなった。
だけど再会したあの日に、月子が、ずっと一緒に居ようって、言ってくれた。“家族”だから、って。月子のことを“姉”だとは思えないのは…俺がガキで、上手く消化できなくて…だから“お姉ちゃん”だなんて呼べなくなっていった。死んだ両親のことの記憶があるから余計に、急になった家族っていうものを上手く受け入れられなくて…だけど、この先一生ひとりで生きていかなきゃいけないんだと思ってた俺に、月子は一緒に生きていこうって、言ってくれた。俺は…その言葉に、救われたんだ。たくさん感謝してるし、大事に、思ってる。月子が居てくれて、良かったと思ってる。きっと、これから先もずっと。俺は月子のこと、大切に思うよ」




