◆3
◇ ◆ ◇
日向さんは少し背を屈めて、あたしの顔を覗き込みながら、微笑んだ。
『どうしたの? 迷子?』
まるで小さい子を見るような、柔らかい声音でそう話しかける。あたしに向かって。
『……え、っと…』
『お名前、聞いてもいい?』
そんな言い方されなくても。あたしはもう17歳。高校生だ。
なんだか失礼なひとだな。そう思いながら、なんとなく気まずい気持ちで口を開く。
『……やまだ…つきこ』
言って見上げた彼の瞳に映る自分は、およそ高校生とはかけ離れた外見。そう、ちょうど今の瑠名くらいの年頃の女の子が、日向さんの瞳に映っていた。
日向さんはあたしの答えによくできましたとまたわらう。
『ぼくはね、鈴木日向。よろしくね、月子ちゃん』
そっと両手を目の前でかざしてみる。小さな手。だけど擦り傷も絆創膏もない、きれいでまっさらな手だった。
あたしはいま、5歳。まだ純粋で素直だった、わたし。
『ベッドでいいかな? どうぞ、座って。お菓子でもどう?』
『…ありがとう、ございます。でも、知らないひとにもらっちゃダメって、言われてるから』
言ったわたしに日向さんは、ゆっくりと目を細める。まるでお父さんみたいだ。
『良いご両親だね。親の教育は、子供を見ればすぐわかる』
『…? きょういく…?』
『すてきな、お父さんとお母さんだねってこと』
『うん、わたし、お父さんもお母さんもだいすき。わたし将来は、お父さんみたいな、先生になりたいんだぁ』
物知りなお父さん。国語の先生のお父さん。やさしくて、少しドジで、おひとよしなの。
世界で一番、大好きなの。
本を読むとすぐ夢中になって、周りが見えなくなって、お母さんに怒られて。
ゆづるが泣いてるのにも気づかないで読みふけっちゃうの。だからわたしが、ゆづるのおむつ、替えてあげたんだ。
『わたし、お姉さんだから。はやく大人になって、お仕事して、みんなで大きな家に住むの。弟が増えるから、おっきな家がいいな、そしたら犬と猫も飼うんだ』
『そう…お姉ちゃんなんだ。ぼくもね、弟が居るよ、ふたり』
『でも、でもね…』
あれ、おかしいな。さっきよりも視線が、少し高くなった気がする。日向さんの目線の高さも。
その瞳に映るのは、さっきより少し大きくなったわたし。
『さくやと、上手く話せないの。突然姉弟に、なったから…上手く“お姉ちゃん”に、なれないの…』
そう、わたしが、7さいの時。朔夜はうちにやってきた。
『お父さんはね、はじめ、男の子が欲しかったんだって。いっしょにキャッチボール、したかったんだって。今はゆづるがいるのに…ゆづるはおままごととか絵本の方が好きだから。わたしはキャッチボール、できないから…だからわたしは、要らない子なのかもしれない…さくやの方が、いいのかもしれない…ちゃんとお姉ちゃんを上手くできないと、わたしがどっかに連れてかれちゃうかもしれない……!』
1度だけ、うちに遊びにきたお父さんの友達との会話が、耳に残っていた。
残念だったなぁ、って。
お父さんもお母さんも笑ってたから、それが冗談だって、ちゃんとわかっていた。
わかっていたけれど、でも。
耳にずっと、こびりついていた。ずっと、ずっと。
『……言葉ってとても、難しいよね。言う側と受ける側で誤解が生まれることもある。相手に伝えたいことが上手く伝えられなくて、受け取ってもらえなくて…だけど一度言った言葉は、聞いた言葉は、取り消せない。なくならない。その事実を上手く自分で消化して、生きていくしかないんだ』
いつの間にかわたしの目からは、涙がぼたぼたと零れていた。床に零れた涙が一瞬染みを作ったあと、消えてなくなる。
隣りの日向さんが、やさしくわたしの頭を撫でた。それにひかれるように、涙はわたしの目から流れ続けた。
『わたし…お父さんとお母さんに、きらわれたくなくて…必死に、いい子になろうって、してた。勉強も、家事も手伝いも、いつも心の裏側では、嫌われたくなくて、捨てられたくなくて…そうやっていい子のフリをしていたの』
『良いことじゃない、なろうと思ってもなれない人も居るんだよ。大切にしたくても、それが上手くできない人も居る。きみは自分を守る道を選んだ。それはきっときみが考えていた以上に、困難で、辛い道だったはずだよ』
そんなことない。いつだって自分のことしか考えず、取り繕う為だけに“良いお姉ちゃん”のフリをしてきた。
そうなりたいんじゃなくて、そうあるべきなんだと。
『お父さんは…きっと、気付いてたんだ…だからわたしが医者になりたいって言ったとき…反対したんだ…!』
12さいの、わたし。
図書室で読んだたくさんの本。
お父さんがなんの病気なのか、いつもなんとんなくはぐらかされて、知らずにいた。でも、難しい漢字も読めるようになって、知識を身に着けるようになって。お父さんの症状や飲んでいる薬から、該当する病気名を絞り込んだ。
浅い知識だとはわかっていた。でもお父さんもお母さんも、教えてはくれないから。自分で調べるしかなかったんだ。
お父さんはもしかして長くは生きられないのかもしれない。
“瑠名が生まれる前に、あの人はもう、余命を宣告されていたの…”
あの時。医者になりたいって打ち明けた、あの時にはもう。お父さんは知っていたんだ。気付いていたんだ。
間に合わないって。わたしがどんなに頑張っても、ムダだって。こんな、わたしが。
『わたし…本当に救いたいって、思ってたのかな…それが一番正しい選択だって、勝手に自分で、思い込んで…そんな気持ちで、わたし…自分が否定されて気になって……あたしは…!』
あの日を。あたしはきっと一生忘れないだろう。
あの日あたしは自らの罪を生んだ。そして同時に受けるべき罰も。あの日、生まれたんだ。
瑠名が生まれて1年後。お父さんは休職し、入院生活になった。
あたしは気まずさから、お見舞いにも足が向かなくて。ひとりでなんてとても行けず、必ず誰かと付き添って行くようになった。
お見舞いに行く度に、お父さんの薬は増えていた。眠っている時間が、長くなっていた。
あたしはお父さんの顔を、直視できなくて。まともに会話もできなくて。
謝る機会を逃したまま、時間ばかりが残酷に過ぎていった。
ある日、朔夜とお父さんの病室に行った日だった。朔夜が中学に入学して、新しい制服を見せに行ったんだ、ふたりで。
あたしは花瓶の水をとりかえに、席をたっていた。戻ってくるとお父さんと朔夜の会話している声が、病室の外の廊下にまで聞こえてきた。ドアがちゃんと閉まってなかったんだ。
あたしは思わず病室に入るのを躊躇ってしまって。自分の名前が聞こえた気がしたからつい。
会話が途切れたらでいいやとドアの所に隠れていた。
いつの間にか朔夜の声は、変声期も終えだいぶ男の子らしくなった気がする。身長も力も、あっという間にあたしは追い越されていた。
そんな朔夜の声が、あたしの耳にも届いた。
『俺は…月子を“姉”だなんて思ったこと…1度もない』
ああ、また、あたしは。
間違えたんだ。
上手く、できなかったんだ。




