◇12
それから月子ちゃんのお母さんが、窓際に腰を下ろしながら明るく言った。
「そうだ、ちゃんと包帯かえて、あまりムリしちゃダメだからね」
「…は、はい、ぼくまで手当てしてもらって、すいません…」
「いいのよ、月子のこと、ありがとうね」
「いえ、あの…ぼくけっきょく、ほとんど役に立たなかったんですけど…」
「そんなわけないでしょう、ばかねぇ」
そう言って明るく笑う月子ちゃんのお母さんが、いつもの月子ちゃんと重なってみえて不思議だった。不思議な気持ちでぼくは、その笑顔を見つめていた。
それからふと、月子ちゃんのお母さんがぼくを見つめる。視線が合って驚いて、慌ててぼくは姿勢を正して向き直った。
「…この子の父親の話は、月子から聞いてる…?」
「あの、ちょっとだけ…先生だったんですよね…文学少年だった、て…」
「ふふ、そうなの。懐かしい…私はね、教え子だったの。先生と、生徒」
「え…えっ、うわぁ、すごい、ドラマみたいですね」
まるでマンガかドラマのような話にぼくは何も考えずはしゃいでしまったけれど、月子ちゃんのお母さんはそっと苦笑いを漏らす。
「ね。でも実際には、結婚してからもたくさん辛いことも苦しいこともあった…だけどね、そうした時いつでも、思い出す夜があるの」
ぼくはまだ子供で、わかってはいたけれどやっぱり子供で。情けなくて恥ずかしい。月子ちゃんのお母さんは笑って許してくれるけれど。
「……夜、ですか…?」
「プロポーズしてもらった日の夜のこと。できちゃった結婚で、お腹にはもう月子がいた。綺麗なまぁるい月だった…すごく明るい夜で、星の光が霞むくらい。その月を背に、お父さんがまっすぐ私を見て言った、プロポーズの言葉。ふふ、鈴木くん、なんだと思う?」
まるで少女に戻ったような、そんな口ぶりだった。昔を懐かしんでいるだけでなく、心も戻っているのだろう。
薄暗い部屋にはいつの間にか月明かりが差し込んでいた。
いたずらげに見つめる視線に、しどろもどろと答える。
「え…っと、結婚してください、とかですか…?」
戸惑いながら言ったぼくの言葉に、またお母さんはふふ、と笑う。その瞳がゆっくり動いて、カーテンの隙間から覗く窓の向こう、小さな月を見つめた。
その横顔がひどく儚げに見えた。
想いを、記憶を、大事な人を。悼んでいるのだろうか。
それとも今だけ。かえって、いるのだろうか。
「月が綺麗ですね、て。きっとこの先これ以上に、綺麗に見える月はない。君と居たらずっと、あの月は輝き続けるんだろう、って。鈴木くんはこの意味、わかる…?」
月がとても綺麗な理由。それとプロポーズが繋がる理由…。
「…わ、わからないです…」
「そうよねぇ、わからないわよね。私も最初なに言ってるのかわからなかったですもの。…これはね、夏目漱石の言葉。お父さん、大好きだったのよね、私はあまり詳しくなかったけど…でも、これがきっと、プロポーズなんだ、って。それだけはなぜか、わかったの。だから生まれてくる子が、男の子でも女の子でも、名前に“月”を入れることにしたの。あの夜の愛が、消えないように…どんなに暗い夜でも、照らしてくれるように。子供たちはみんな、そう願いを込めて名前をつけた。月子には、できるだけたくさん、兄弟をつくってあげたかった。月子のあとには3人続けて男の子、それから瑠名も生まれた。夢にまでみた、賑やかな家族で、幸せだった。お金はなかったけれど、みんな、いい子だったから」
その表情は、月明かりと夜との境界に溶けて、みえない。
今日の月は、ちゃんと明るいだろうか。ちゃんと夜を、照らしてくれているだろうか。
「瑠名が生まれる前に、あの人はもう、余命を宣告されていたの…お父さん、言ってたわ。自分の命の限りが見えたとき…やっぱり一番さいしょに浮かんだのは、子供たちのこと。死にゆく自分はどうしたら、子供たちを幸せにできるだろうって、そればかり考えてた、って。そのすぐ後に月子から、将来のことを相談された時…医者になりたいって、言われた時。“待ってるからがんばれ”なんて言えなかったのは、自分の余命を、未来を、知っていたから…月子の未来を、自分が縛りつけたくなかった。奪いたく、なかったから…だけど想いは上手く噛み合わなくて。月子を…深く傷つけてしまった」
以前、帰り道の途中で月子ちゃんが話してくれたことがある。お父さんのこと、大嫌いなまま、死んでしまったって。
何かあったんだろうなとは思った。だけど部外者のぼくには、何も言えない。言えるわけない。
あの時も、今も。ただその横顔を見つめるしかできない。
目を逸らすことも、できずに。
それから月子ちゃんのお母さんが零れた涙をなんでもないように払いながらぼくに向き直って笑った。
ふとあの時も月子ちゃんは実は泣いていたのだろうかと、そんなことを根拠もなく思った。
「お夕飯の準備、してくるわね。もう少しだけ月子に、ついててあげてもらえる?」
「あ、はい…っ」
「ありがとう、よろしくね」
言って立ち上がりながら、それからふと視線をぼくに向ける。
「…さっきのプロポーズの話、子供たちは知らないの。だからみんなにはナイショね、鈴木くん」
そう言って月子ちゃんのお母さんは、少しだけはにかんた。それは月子ちゃんが時折落とす、小さな笑みと似ていた気がした。
それから静かに部屋を出て行くその小さな背中を見送る。
部屋にはまた、ぼくと月子ちゃんのふたりきりになった。
でもすぐ壁1枚向こうには、みんなが居るはずだ。朔夜くんや弦くん、満くんに望くんに瑠名ちゃん。
さっきの話の違和感にぼくは気付いていたけどなんとなく、それを確認する気はなかった。だってそれはそんなに、重要なことではない気がしたから。
月子ちゃんのお母さんが見上げていた月を、ぼくも見上げてみる。
例えば天国があったとして。そこには月も昇るのだろうか。やっぱり別の、空なのだろうか。
そんなバカみたいなことを考えて見上げる月は、いつもと変わらずまるくて明るい。でも変わらないわけじゃない。月は欠けるし明かりも消える。いつか、かならず巡る。だけどその中で、今日の月は明るかったから。
ぼくは少しだけ、ほっとした。
「……あたし、よ…」
その小さな声は、自分のすぐ脇から聞こえてきた。
見上げていた視線を、ベッドに戻す。繋いだ手はそのままに。
そっと覗き込むと、月子ちゃんがうっすらと目を開けていた。だけどまだ意識が朦朧としているのか、その視線は天井に注がれている。薄暗くて、その表情はよくわからなかった。
「…月子ちゃ」
「傷つけたのは…あたしなのよ」
月子ちゃんの口から突然出てきたそれが、なんのことを言っているのかすぐに理解できた。ついさっき、話していた内容を、月子ちゃんは
「…聞いて、たの…」
少しずつ手の平の熱が奪われていく。いつもは温かい月子ちゃんの手が、冷たくなっていく。
ぼくは急に、ぞっとした。理由もわからず、こわくなった。
月子ちゃんは天井に視線を向けたまま、おそろしいくらいに力のない声で、続けた。
「あたし…医者に、なりたかった…お父さんの病気を、ずっと傍で見てきたから…勉強して、医者になって、お父さんの病気を、治して…あげたかった…あの時はまだ、子供だったけど…本気でちゃんと、そう思ってた…その為には、私立の良い中学にはいって、勉強したくて…だけど、あの日…お父さんに…反対されて…」
いつもはっきりと物事を言う月子ちゃんの凛とした声が、小さくふるえていた。
「月子、ちゃ…」
「かなしくて…くやしくて…あたし、お父さんに、ひどいこと…最低なことを、言った……」
もうやめてと無意識に思った。だけど月子ちゃんは続ける。ぼくの目からは涙が溢れた。
「生んでくれないほうが、良かった…って」




