◇11
窓の外には夕闇が迫っている。
部屋の中は電気をつけていないので薄暗く、次第に暗くなる部屋にずっと居たので目は既に慣れていた。でも電気をつける気もここから動く気もなかくて。
ぼくは今、月子ちゃんの部屋に居る。
数十分前まで、実はぼくも月子ちゃんのベッドに突っ伏して眠っていた。看病のつもりでついていたけど、結局なにもしていない。目を覚ましてからは月子ちゃんの寝顔をずっと見ていた。
ただ月子ちゃんの握った手を離せなくて。ずっとずっと、ここに居た。ここに居たかった。
月子ちゃんをベッドに寝かせてくれたのも、ぼくの怪我の手当てをしてくれたのも月子ちゃんのお母さんだった。
なんとか家まで連れ帰ってきた月子ちゃんを見て、朔夜くんが真っ先に電話してくれた。月子ちゃんのお母さんは、飛んで帰ってきてくれた。
保健室から月子ちゃんを助けたのは…それからこの家まで月子ちゃんを運んでくれたのは昴流さんだった。
月子ちゃんが保健室からぼくを逃がした後。ぼくらを隔てるたった1枚のドアすら破れないぼくは、せめて誰か助けを呼ばなくちゃと校内をふらふら彷徨っていた時、偶然通りかかったのが昴流さんだった。
ぼくが知っている中で、あの扉を破って月子ちゃんを助け出してくれそうな人――会った瞬間に、それはもうこの人しか居ないと思った。昴流さんしか居なかった。
それは決して、ぼくではなかった。
昴流さんは泣きついたぼくに一瞬眉根を寄せたけれど、ひとつだけ条件を差し出し、それをぼくは呑んだ。なんだっていいから、どうなったっていいから、今すぐ彼の力が必要だった。必死だった。
そしてその後、見事に保健室から月子ちゃんもとい、ぼくの体を助け出してくれた。その後もとに戻った月子ちゃんの体を、意識を失ってしまった月子ちゃんを、家まで運んでくれたのも昴流さんだ。ぼくも途中までは抱きかかえて逃げていたのだけれど、途中から集中の糸が切れ、自分の体の痛みに耐え切れず昴流さんにバトンタッチしたのだ。
ぼくは結局。ぼくじゃ結局。月子ちゃんを助けることは、できなかったんだ。
1日に、しかも短時間に何度も入れ替わったせいで、お互い体のピークはとっくに超えていた。それに加え体と心へのダメージでボロボロだった。
月子ちゃんはやっぱりひどい熱で、お医者さんを呼んでもらって注射を打っていた。一瞬晃良兄さんを呼ぼうかと思ったけれど、流石にやめた。合わせる顔がない。
ぼくの怪我の理由を、月子ちゃんの家族は誰も訊かなかった。それが正直ありがたかった。
月子ちゃんに注射を打つ時、触診もあわせてするということで月子ちゃんの制服をめくった時…その時の月子ちゃんのお母さんの顔が、忘れられない。
それはきっと月子ちゃんが隠し通そうとしたもので、だけどお母さんには隠し通せるものではなくて。
月子ちゃんの意識はなかったのにつられるように熱くぼくの体の傷が疼いた。
それから月子ちゃんのお母さんは、ぼくに深く頭を下げた。
ぼく必死に止めたけれどきいてはもらえず、長い間。
月子ちゃんのお母さんは静かに泣きながら、ぼくなんかに頭を下げ続けていた。
そっと、少しだけ開いていた部屋の扉から顔を覗かせたのは、月子ちゃんのお母さんだった。あまりにも上手に気配を消していたものだから、声をかけられるまでぼくは気付かなかった。
「…あら、目、覚めたのね。痛み止め、どう?」
「あ…っ、すいません、いつの間にぼく、寝ちゃって…痛みは今はもう、ぜんぜん平気です…」
手には水とタオルを持っている。音を立てずに室内に入り、テーブルにそれらを静かに置いた。それからベッドの月子ちゃんを覗き込む。
ぼくは慌ててベッド際からどこうとしたけれど、やんわりと手で制された。一瞬躊躇したけれど、素直にそのままじっとしていた。
「月子も少しは、顔色が良くなったみたい…汗もかいてるし、ちゃんと薬が効いているみたいで良かった。この子昔から、薬とか注射が苦手で。本当、子供なんだから」
そう言った顔は当たり前だけど“お母さん”で、そして月子ちゃんはやっぱり、“子供”なんだ。
鼻の奥が意味もわからずツンとした。だけど月子ちゃんのお母さんの前だったので、必死に堪えた。
「あ、そうだ、プリン作ったんだけど…鈴木くん、食べない?」
「えっ、あ、あの、すいませんぼく、卵アレルギーで…!」
「あら、そうなの…」
「す、すいません…」
「ばかね、謝ることないでしょう。そうでも、大変ねごはんとか」
何気なしに言われてぼくは、はっと気付く。
ぼく、今までのごはんって、どうしてたっけ…?
もちろんあの食卓でとっていた。朝と夜、ほぼ毎日。日向兄さんのふりをしながら、いつも必死に、味もわからないほど。
どんなものを食べていたっけ。そこに卵って、入っていなかったっけ…?
だいたい限界を超えると吐き出してしまっていたし、食べる時はいつもそれどころじゃなくてどんな料理が用意されていたのかをあまり覚えていない。覚えていないけど。
そういえばアレルギーがでたことは一度もなかった。今まで、一度も。
「卵アレルギーはね、一番さいしょ、赤ちゃんの頃が本当に大変なの。少しずつ少しずつ、食べれるものとダメなものを見極めて、程度によってお母さんがラインをひいてあげなくちゃいけないから。母乳のうちは、お母さんも除去食を徹底しなくちゃいけないしね。お母さんはきっと、あなたの為に頑張ったのね。今あなたが食べ物にそこまで気をつかっていないっていうのは、きっとそういうことだと思うわ。それでもアレルギーっていうのは時には命にもかかわるから、なるべく避けてほしいと思ってしまうのよね。たぶんあなたの卵アレルギーはほぼ改善しているんじゃないかしら。それを言わずにおいたのは、きっとお母さんの思いやりね」
月子ちゃんのお母さんの言葉に、「はぁ」と力なく相槌を打つ。なんだか上手く思考が回らない。
だってあの食卓に“ぼく”は、鈴木陽太はもういないはずだから。だから母さんが作る食事に、そんな気遣いあるはずがない。この前だってそういえば、プリンが出てきたし。でも、…でも。
それはぼくの、願望だろうか。捨てたはずの、希望だろうか。
また涙が落ちそうになって、隠そうと必死に堪えるけれど、だけど月子ちゃんのお母さんは見てないフリをしてくれていたから。
1粒だけ零した涙を、夜に隠した。




