◆10
「は…、はは、く、うける…マジでそれ、言ってんのか?」
歪んだ視界に映る桜塚健太の顔が、更に歪む。もう口も指も瞼さえも動かせない。
流れた涙はどっちのだろう。またどうせ彼のかな、それとも。あたしの、だったりするのかな。
「とうとう頭、イカれたか?」
どす黒い息を吐きながら、止まっていた桜塚健太の手が、喉元へと伸びてくる。ごつごつとして大きな手。彼とは違って、ひどく熱い気がする。この体が熱いだけだろうか。
もう片方の手が、視界の端で再び振りかざされた。
「俺から、逃げられると思ってンのかよ、本気で」
解っていた。だけど少し、期待していた。どうしてだろう、今まで何度も、そうだったのに。
これで最後かもと思いながら、遊びは続く。彼らが飽きるまで、ずっと。
そんなこともう十分、わかっていたはずなのに。
「なぁ…死んじまったお兄チャン、元気ぃ?」
左頬に拳がめり込む。頭のどこかでガツンと音がした。ような気がした。血が、口の中いっぱいに、溢れて漏れた。
それでも一番痛かったのは心臓だった。
もう一度振り上げられた拳に瞼を閉じた瞬間、突如けたたましい音が保健室いっぱいに響き渡った。
保健室だけじゃない、廊下にも、近隣の教室にも。その大きな音が辺り一帯に衝撃を撒き散らしながら地面を揺らした。まるで雷か地震みたいに。
それが破壊音だと気付いたのは、勢いよく倒された保健室のドアが視界の端に映ったからだった。そのドアは中央部あたりがベコリとへこんで、金属片がそこら中に飛び散っている。
薄く上がる砂埃。耳の奥では耳鳴りがしていた。
「な、なんだぁ…?!」
「げほ、あぶね…! 下敷きになるとこ、だった…!!」
あまりの出来事に振り下ろそうとしていた桜塚の手も止まる。あたしは頭すら動かせず、眼球だけ動かしてその変わり果てた保健室のドアを見つめていた。
無残な姿に成り果てたそのドアは、さっきまであたしが必死に守っていたものなんだけれど。世の中って、理不尽だな、なんて。どこか他人事のように考えていた。
て、いうか。いま一体なにが起こったのだろう。
砂埃が舞い、うっすら煙が巻いている。その向こうから、ゆるりと大きな人影が保健室に侵入してきた。おそらく今しがたドアを蹴倒した本人だろう。
誰が、どうして、こんなこと。だけど半ばどうでもよかった。なんだかもう、ぜんぶ。投げ出したい気分だった。
もう一度瞼を閉じようとしたその瞬間、随分と聞き慣れた声が耳に届いた。
「――月子ちゃん…!」
…ああ、これは。自分の、声だ。
だけど他人の耳で聞くとやっぱり違和感。あたしの声は、こんな抑揚がはげしくないから。あたしはこんな風に叫んだり、しないから。
その声は保健室へ侵入してきたナゾの人影の方から聞こえてきたと思ったら、その後ろからさらに人影が飛び出す。
保健室内を見回していた視線が、あたしとぶつかった。
そこに居たのは“あたし”で、そして“彼”だった。
…どうして。どうして戻ってきたのよ。こんな、ところに。
あたしの様子を確認した途端、泣きべそをかいていた顔が、さらにぐしゃぐしゃになる。まるで泣きじゃくってる子供だ。そんな風に泣いたこと、ないのよあたしは。
「月子ちゃん…っ、…ぅ、っく、月子、ちゃ…!!」
…ばか、ね。今あたし達は、入れ替わってるんだから。あなたがそう呼んだら、おかしいでしょう? そんなことより、どうして逃がしたはずのあなたが、ここに居るのよ。あたしが、何のために…一体、なんのために。
疑問はいくつも湧き言いたいことはたくさんあったけれど、でももう言葉すら発せなかった。
どうしてだろう。一度諦めてしまったからだろうか。力が出ない。
「…なんだ、コイツ…」
目の前の桜塚の視線が、彼を、“あたし”の姿を捕える。だけど彼はまっすぐ、あたしを見つめていた。あたしに歩み寄っていた。
「は、なに…コイツを、助けようっての? もしかして」
笑いながら桜塚が、その手をゆっくりと伸ばす。その手に気付いていないのかはわからない。彼は止まろうとしなかった。
だめ、やめて。声が出ない。指一本動かせない。振り絞れるものが、あたしには残っていない。もうなにひとつ、あたしには。
「月子ちゃん…!!」
どうして彼は、あたしを呼び続けてくれるんだろう。
見捨てないで、居てくれるんだろう。
次の瞬間あたしは彼の腕の中に抱かれて居た。
まるで夢の中にでも居るように、すべての出来事が遠巻きに見える。だけど彼の腕の温もりは温かかった。
「もう、大丈夫だよ…」
彼がそう耳元で囁いた。とても落ち着いた、優しい声音だった。だからやっぱり夢でも見ているのかなと思った。
肩のあたりにポタポタと何か温かい感触。錆びた鉄の匂いが鼻をつく。
つい先ほどまで体中を這っていた強烈な痛みは、今は種類の違う痛みにかわっていた。だけど体の感覚はもうとっくに、正常には機能していないみたいだ。
「ぼくは…月子ちゃんが、生まれてきてくれて…よかった」
熱と痛みとで歪む視界には、血を吐きながら笑う彼が居る。
あたしの目には、彼の流した涙の跡。だけど彼の目にも涙が流れていた。
あたしは、…あたしは。
生まれてきたく、なかった。
こんな世界ならいっそ、生まれる前に戻って、ぜんぶやり直したかった。
そしたら今度はきっと、なにひとつ間違えずに、生きていける気がした。
次にあたしが目を覚ましたのは、自分の部屋のベッドの上だった。
まだ意識が朦朧とするなか、映ったのは見慣れた天井。狭い四畳半にむりやり詰め込んだ2段ベッドの片割れは、小さい時からずっと使っているものだ。もう片割れは朔夜が使っている。今も、多分。
幼い頃…あたしがまだそこまで聞き分けや物分りが良くはなかった頃。自分専用のベッドが欲しいとねだったのだ。だけどお父さんが買ってくれたのは、2段ベッドだった。
『どうして2段ベッドなの?』
『ひとりじゃ寂しいだろう? それに…もうすぐ月子に、弟が増えるんだ。その弟と、いっしょに使うんだよ』
『わたしはもう、ひとりでも眠れるよ』
『はは、そうだなぁ…なぁ、月子。月子は、お姉ちゃんなんだから――』
わかってるよ、お父さん。わたし、お姉ちゃんだもん。この家の、長女だもん。
もうすぐ弟が、増えるんだよね。今はまだお母さんのお腹の中だけど。しかも双子、なんだって。ふたりもいっぺんに、増えるんだよね。
わたしもすごく、楽しみだよ。ゆづるもすごく、楽しみにしてる。きっとたくさんかわいがる。お世話もお手伝いもたくさんする。
でもそれなら3段ベッドの方が、よかったんじゃないかなぁ。
『弟達のこと、頼んだぞ』
ふと手の中に、ひやりと冷たい感触がした。
なんだろう。熱の篭る体に心地よい冷たさ。それになぜだか、ほっとした。まるでお母さんに頭を撫でられた時のような。
だけど視線は天井に縫い付けられたまま。それを確認することすらできない。開いた瞼をゆっくりと閉じる。
心なしかすぐ傍に、誰か居る気がした。声が、する気が。
でもきっと気のせいだ。きっと誰も、いない。
このまま眠ろう。起きたばかりだけれど、まだ眠いから。
ああ、でも、夕飯の準備をしなきゃ。洗濯物はこんだかな、お風呂の掃除は…今日は誰の当番だっけ。
狭くて小さい家には、いつも家族7人が、ぎゅうぎゅうで暮らしている。それをイヤだと思ったことはない。
“お姉ちゃん”でいる時間は、ほっとした。あたしだけの居場所だった。
だけどそれなのにいつもどこか……淋しかった。




