◆9
いつからだろう。
朔夜が、弦たちが、あたしを名前で呼び始めたのは。
朔夜は…覚えてない。本当にいつの間にか、だった。
でも弦たちはそう、覚えてる。お父さんのお葬式の後からだ。
“お姉ちゃん”って、呼ばなくなったのは。
『……俺は…』
それまであたしは“良いお姉ちゃん”であろうと必死だった。
そうしないともう、家族の中に居られない気がしていたのかもしれない。
必死に、取り繕って。だけど粗い縫い目はいつしか広がって。
『月子のこと“姉”だなんて思ったこと…1度もない』
まるでドラマか小説みたいなセリフが、朔夜の口から零れて落ちた。
だけどそれは現実で、そしてそれは、当然の報いだった。
◇ ◆ ◇
「…は、ダレかと思ったら…ひきこもりの陽太クンじゃん」
保健室のドアの鍵を後ろ手に押さえながら、3人の男達と向かい合う。じりじりと距離を詰めるにつれて、一番最初にそれはそれは楽しそうに笑い出したのが、先頭に居た人物、桜塚健太だった。
いじめっこのリーダー。この学園の問題児たちのボス。
こうして明るい場所でまともに顔を見るのは初めてだ。クラスメイトとはいえ、ほとんど教室には来ない。
堀越恭子といい、獲物を眼前に認識すると、なんて愉しそうな顔をするのだろう。それはもう、人ではないみたいだった。
「うわ、マジだ」
「うっそ、昼間は学校に来られないんじゃなかったけ」
「やべー、こうして顔まともに見んの久しぶりなんですケド。いっつも夜だもんなぁ」
「なんだよ、昼間出歩けないなんて、ウソじゃん」
「はは、こうしてみると昔とは別人な」
体の芯から、冷えていく。哀しいくらいにこの体は、本能に忠実だ。
心臓は鼓膜のすぐ隣りにあった。体の感覚はまるで無く。右手首だけがじくじくと痛んだ。
もし今この手に刃物があったとしても目の前の彼らではなく、きっとこの右手首に突き刺さるんだろう。
「つーか、さっき明らかにダレか居たよな、もしかして逃がしたの? お前が?」
「恭子たちのオモチャじゃねーの、いいのかよ健太」
ぎゅ、と。できる限りの力で扉の鍵を押さえる。もうそれほどの力は、この体に残っていなかったけれど。
「いーよ別に。恭子たちもそろそろ戻ってくんだろ、あっちには別に興味ない」
目の前の桜塚健太の瞳には、しっかりとあたししか、鈴木陽太の姿しか映っていない。どうしてそこまで彼に、こだわるんだろう。
「さんっざん人のこと無視しておいて、こんなとこで会うなんて、運命だなぁ、まるで」
桜塚健太が笑った顔のまま、その長い脚を振りかぶる。やけにゆっくりとした動作に見えた。だけど不思議と体はその先を予測したいたらしく、無意識に身構えているのがわかった。
瞬後、腹に彼の脚がめりこむ。鈍い大きな音と共に。
「…ぐ…ぅ…!」
「なぁ、そう思うだろ…?」
続けて、2発、3発と。ほぼ同じ場所に蹴りこまれる。重く鈍く激しい音が、何度も何度も保健室内に響き渡った。
まるでサッカーボールを蹴っているよう。彼はとても愉しそうに笑っている。血を浴びながら、まるで子供みたいに。
それはそうだ。彼にしたらただ、遊んでいるだけなのだから。
「はは、容赦ねー。まぁお前が悪い、メールも電話も無視すんだもん。俺たち、オトモダチっしょ?」
「そうそう、健太がいっちばーん、傷ついてたんだぜ? 手加減できないほどにな。…せいぜい、死なないでくれよ? まださぁ」
後ろでふたりはぎゃははと下品に笑っている。類は友を呼ぶって、ホントなんだな。
でも、そうね。最後の一部分だけは、同感だわ。
「なんでここに居んのか知らねぇけど…今こうして居るってことは、これからもっと、遊んでくれるってことだろ?」
無邪鬼にわらう。悪魔が嗤う。
あたしなら、彼じゃなくてあたしがこの体に居る時なら、痛みは少しでも和らぐかもと、そんな自惚れたことを思っていた。やっぱりそんなこと、ないんだなぁ。ごめんね、ちゃんと、守ってあげれなくて。やっぱり…痛いや。
腕を掴まれ、近くにあったベッドに投げ捨てられる。死んでも扉の前から動くまいと思っていたけれど、彼らは特に扉の向こうには興味がないようで、ほっとした。
桜塚健太が馬乗りになって、血まみれの胸倉を掴んだ。振りかざす拳。死んだみたいに無抵抗の体。きっと“彼”は今まで一度だって、抵抗したことがないんだろう。指1本動かせない。
主人の命令をきかない体。まぁあたしは本当の主人ではないんだから、当たり前なのかもしれないけれど。
「…もう…いいでしょう…」
血を吐きながら、なんとかそう、口にした。喉元まで湧き上がった胃液で口の中がピリピリする。
拳がぴたりと眼前で止まった。歪む視界には、桜塚健太が映っている。その顔から笑みは消えていた。
こんな状況でしゃべりかけられるのが初めてなのか、物珍しげに見下ろしている。
あたしは振り絞る声で、続けた。
「10年、以上も…人生を、奪ったんだから…もう、十分でしょう…新しいオモチャなら、さっきの子を、あげるから…」
桜塚健太が怪訝そうな顔をしている。ちゃんと彼のふりをして言わなくちゃと思ったけど、思った以上に余裕はなかった。
「…もう…彼を…ぼく、を……解放してあげて…」
彼には、死なないでほしい。たとえ彼が死にたいと思っていたとしても。
だって彼、弱いから。このままじゃ本当に、彼の心がぺしゃんこになってしまうから。流石にそれは、胸が痛むから。
そしてできればもう二度と、傷つかないで、いてほしい。
ずっと、ずっと。




