◇8
すぐ目の前で月子ちゃんが、困ったような、呆れたような顔をしているのがわかる。
“ぼく”の目から溢れていた涙はもう止まっていた。おかしいな、そんなカンタンに止まるはず、ないんだけど。
「とりあえず、ここから出ましょ…ここに居てもやり過ごせそうにはないし」
「う、うん…」
ぼくの体になって絶不調から解放されたからか、月子ちゃんの声の様子はいつもの月子ちゃんだった。逆にぼくはしんどくて辛い。昨日の苦しみの再来に頭を抱えるしかできない。自業自得なんだけど。
月子ちゃんが先にベッドの下から這い出て、それからぼくの手をとってひっぱり出してくれた。動揺と不調とで上手く立てない。体の感覚がひどく鈍い。
よろけた体を月子ちゃんが支えてくれた瞬間、あっという間に視界が溢れった。止め処ない涙はこんなにカンタンに、ぼくから月子ちゃんの体へと乗り移るのに。
ぐしぐしと涙を拭いながら、月子ちゃんに向き直る。改めてこうして立つと、身長差から見上げる形になる。月子ちゃんはやっぱり表情を変えずに、ぼくを見下ろしている。その目はぼくを、責めているわけではなかった。たぶん、なんとなくだけれど、そう感じた。
「で、でも、これなら、逃げるしか、ないよね…っ! だってぼく、痛いのヤだし、殴られたら月子ちゃんみたいに、耐えられないもん…!」
「…まぁ、あなたなら、そうでしょうね」
「ぼくなんて軟弱だし、ひ弱だし、桜塚達には手も足も出ないし…っ もう、いっしょに、逃げようよ…!」
必死に訴えるぼくを置いて、月子ちゃんはゆっくりと笑った。そう見えただけで、実際は違うのかもしれない。月子ちゃんが笑う顔なんて数えるほどしか見たことないから自信は無い。それに今はぼくの顔で。だけどそれはもう確認できない。
月子ちゃんがぼくを抱き締めていた。
ぼくはその予想外の反応にびっくりして、息を呑む。熱いのは月子ちゃんの体に熱が篭っているからだ。
思考が上手く、働かない。体も固まる。
「つ、月子ちゃん…?」
「……せめて…」
ぼくは自分の体に抱き締められているのに、なぜかドギマギしながら月子ちゃんの様子を伺う。わずかに覗くその表情。全部は見えない。
月子ちゃんは、笑っていない。泣いてもいない。まるで欠けていくように、みるみる表情を失っていく。
無表情という表情すらなくなっていくように見えた。不自然に笑った形の口元が、言葉を紡ぐ。
「男に、生まれたかった」
保健室のドアが大きな音をたてて開いた。
ベッドのカーテンはひかれたまま。薄いカーテンの向こうから、ドカドカと乱暴な足音が室内に響く。足音の数から察するに、桜塚といつもつるんでいる2人も一緒だ。
いよいよ絶望的な状況。流石の涙もひっこんだ。
突然、ベッドに残っていた白いシーツが、ぼくの視界を覆った。その瞬後、月子ちゃんがぐい、と力強くぼくを抱きかかえる。いきなりの浮遊感に慌てて目の前の体にしがみついた。
一体、何を。
突然のことに声すら出ない。思考が追いつかない。頭まで真っ白になる。響く、声。
「…恭子たち、居ねーじゃん」
「トイレだろどーせ」
ひやりとした冷たい恐怖が頬を撫ぜる。心臓が止まり、すぐに今度は暴れだす。血管が千切れそうなくらい、ひどく。
カーテンのすぐ向こうから聞こえてくるのは、紛れもなく桜塚達の声だ。その声だけでぼくを支配できる、恐ろしい声音。震えることすら忘れるほどの。
この前の呼び出しにも応じなかったし、その後のメールや電話にも一切反応を返していなかったので、こんな至近距離で声を聞くのは久しぶりだった。
「山田、だっけ。けっきょく捕まえてどーすんの」
「恭子がアソビたいだけだろ 俺らもヒマだからいーけど」
「さみー。さっさと終わしてどっか行こーぜ、俺酒のみてー」
「宏人は最近そればっかじゃねーか、誰が金出すと思ってんだよ」
「どうせ慶介んとこでやってるバーだろ? いーじゃん出世払いで」
「マジふざけんな、そろそろ財布呼び出せよ健太、他人の金で飲むから美味いんじゃん? 酒なんて」
「…そーだな」
ストーブの近くにあるパイプ椅子にドカリと腰掛ける音。それから荷物を投げ出す音だったり、携帯の着信音だったりと、途端に室内が騒がしくなる。このままこの喧騒に紛れて消えてしまえたら、どんなにいいだろう。
「大丈夫よ…」
月子ちゃんがぼくの背中を撫でながら、ひどく小さな声で呟いた。カーテンの向こうの桜塚達には聞こえないくらい、静かな声で。
ぼくは月子ちゃんにかつがれたまま。視界が奪われたままで、外の様子も月子ちゃんの表情も、何も見えない。
「あなたを心配する人たちのために、できるだけこの体は、守るから」
それって、どういう―――
その答えを考える間もなく、月子ちゃんが一歩を踏み出す。バサッ、と布の翻る音。室内にあった音が一瞬途切れた。
見えなくても、わかる。今ぼく達が、桜塚たちの視線に、晒されているってことぐらい。
「……あ?」
布越しにでも伝わる桜塚の怒気を孕んだ声。一切の音が止む。やかんの蒸気の音さえも。とうとう中の水がなくなっただけかもしれない。
月子ちゃんは、歩みを進めた。ぼくは事態をまったく呑み込めず、されるがまま。ガタン、とひどく遠くで音が鳴る。おそらく椅子から立ち上がる音。
「なんだ、お前――」
桜塚が敵意を滲ませる。まだ“ぼく”だって気付いてないんだ。
月子ちゃんがどこに向かっているのか。その答えが次に聞こえてきた音でようやく分かった。
ガラガラガラ――
聞こえてきたのは、保健室のドアを開く音。それから足元にひやりとした冷気を感じた。
ゆっくりと下ろされたそこは、廊下だった。月子ちゃんの、もといぼくの体はまだ、保健室の内側だ。
頭からかぶっていたシーツが足元に広がる。やっと、月子ちゃんの顔が見えた。
「すぐに堀越恭子たちも戻ってくる。はやく学校から出るの、いい? 寝て起きたら、ちょっと体は痛いかもしれないけど、ちゃんと全部、終わってるから――」
「な、に言って…」
そう言って月子ちゃんは保健室のドアをゆっくりと閉め、ガチャン、と鍵を閉めた。
月子ちゃんは笑っていた。
保健室の中には、ぼくの体と月子ちゃん、それから3人のいじめっこ達だけになった。月子ちゃんの体と弱虫なぼくだけが、冷たい廊下に取り残されている。
ドアの鍵は、ぼく用だ。だって中に居るひと達からしたら無意味だもの。
月子ちゃんはぼくだけを、逃がしてくれた。守ってくれた。ぼくの、心だけを。
「う、そ…ダメだよ、ムリだよ…!」
力の入らない手で、保健室のドアに手をかける。弱々しく揺れるだけの冷たい扉は鉄の扉みたいに開かない。
「月子ちゃん…!」
いま“ぼく”を、桜塚たちから遠ざけてくれたっていうことは、ぼくの体じゃなくて、“ぼく”を逃がしてくれたっていうことは…それがどれだけ痛くて苦しいことか、知っているからでしょう? だから、“ぼく”を守ってくれたんでしょう…?
「どうして…」
月子ちゃんを、守りたい気持ちは、あるのに。いつだってぼくは、自分のことが一番で、自分が助かること、逃げることしか考えていない。自分のことしか考えてないようなヤツだけど、それでも。
助けたいのに。傷ついてほしくないのに。
「なんで、入れ替わっちゃうんだよ…!」
この体じゃ…月子ちゃんの、この体のままじゃ、月子ちゃんは守れない。
――絶対に。




