◇7
ガラガラガラ――
保健室のドアが開けられた音が、静かな保健室に響く。室内にはやかんから漏れる蒸気の音だけ。そこにドカドカと足音が乱暴に侵入してくる。
「…センセー居ないんだぁ」
「今職員会議だって、ドアのプレートに書いてあった」
「へぇ、あ、ソコじゃね? カーテンひいてあるトコ」
どくどくと、心臓が鳴る。足音がこちらに、近づいてくる。あがる呼吸を抑えるのに必死で、心臓の音が聞こえてしまわないか不安で堪らない。
シャッ、とカーテンレールが勢いよくひかれた。
ぼくぎゅ、と目を瞑り、腕の中の月子ちゃんを強く抱きしめた。
「……あれ?」
空っぽのベッドを見下ろす声が、ぼく達にもじわりと落ちてくる。おそるおそる目を開けて視線を向けると、すぐ目の前に履き潰された派手な上履きが見えた。その後ろに他のふたりの上履きも加わる。やっぱり踵は潰れていて、原型を留めていない。
「…居ないじゃん」
「別の保健室だったんじゃないの?」
「でも、クラスの奴らはココだって言ってたんだけど」
「逃げたとか?」
「まさかぁ、だってアイツ、逃げたことないじゃん」
ギシ、とベッドが大きく軋んだ音。おそらく堀越恭子が腰を下ろしたのだろう。
ぼくは一瞬息を止める。心臓も止まった気がした。
「…アイツ、どこ行ったわけ?」
空っぽのベッドのその下に、ぼくは月子ちゃんを抱いたまま隠れていた。
結局、外に出ることも上手い隠れ場所を探すこともできなかったぼくが、咄嗟に入り込んだのはベッドの下。
せめて別のベッドの下ならまだ良かったかもしれない。こんな、至近距離。見つかるのも時間の問題だ。心臓が早鐘を打つ。
否応なく胸に押し付けられている月子ちゃんには、きっと聞こえているだろう。申し訳ないけど、ぼくなんかに抱き締められたくなんかないだろうけど、仕方ない。
とにかく今は、運よくやり過ごせることを、祈るしか――
「学校にはまだ居るっしょ。ぜってー探し出してやる」
そう言った堀越恭子の声に、ひやりと冷たいものが背中を滑った気がした。
どうして…どうして、そうまでして。一体月子ちゃんに、なんの恨みがあるというんだ。なんの非があるというんだ。
おそらく携帯をいじっているだと思われる、カチカチという音だけがものすごい速さで室内に響く。他のふたりも携帯を取り出したのだろう、会話が一瞬途切れた。だけどそれは一瞬で、すぐまた堀越恭子が口を開いた。
「今日、健太達も学校来てるから、手伝わせるわ。最近あっちの獲物もなんか反抗的らしいし、きっと鬱憤溜まってるだろーし」
「へー、そうなの?」
「なんかメールしても反応ないって、キレてた」
「いー度胸じゃん、つってもあたし会ったことないけど」
「あたしも会ったことは無いよ、健太も自分の獲物人に手ぇ出されるの嫌いだしさ。あたしも最初、イヤだったんだよねぇ」
「ああ、山田? 急に八坂さんだっけ? しゃしゃり出てきたもんね」
「まぁ、痛めつけてくれるんならなんでも良かったんだけどさぁ、あのひとぜったいドSじゃん? 前にケンカしてるの見たことあるんだけど、頭どっかおかしいんじゃないかってくらい、相手殴っててさ。あれぐらい山田にやってくれたら、死ぬかなって。 おもしろそうじゃん? なのに使えるかと思ったら案外使えないっつーか、ナニ考えてんだかわかんないし」
「この前だってけっきょくどうなったの? 最後ふたりだけ残してきてさ」
「さぁ。証拠ちゃんととってきてねっつったのに、メールしてもはぐらかされてるし…あ、健太達こっち来るって」
こわいと、思ったのは。
彼女から桜塚の名前が出てきたこともそうだし、桜塚達がこちらに向かっているのもそうだし、その後のことを想像するともう正気を保っていられないってくらいこわかった。だけど何よりこわかったのは。
堀越恭子の口からそんなバカみたいな言葉が当たり前のように零れたこと。月子ちゃんはやっぱり、当たり前のように平然としてその言葉を聞き入れていること。
当たり前の意味を、この場で理解できていないのは、ぼくひとりで。
こんな世界で月子ちゃんがただボロボロになっていく様子が、ぼくには鮮明に想像できた。
それがこわくて哀しくて、……悔しかった。
思わず泣き出したぼくに、月子ちゃんが少し困惑しながらそっと指先で涙を拭ってくれた。嗚咽を必死に抑える。携帯に夢中の堀越恭子達には気付かれてないようだ。
「あたしトイレ」
「あ、あたしもー」
「なにそれ、あたしもけっこうガマンしてたんですけど」
「ケン達には場所言ってあるんでしょ? 待ってなくても別によくない?」
「カバン置いてくし、場所聞いたらすぐ着くって言ってたからいーよ」
「その間に山田いなくなっちゃわない?」
「平気だって、ほらそれ、山田のカバンっしょ? きっと戻ってくんだって」
納得したのか、堀越恭子の後を他のふたりも続き保健室から出て行ってしまった。
それから再び静まりかえった室内には、やかんの蒸気が吹き出す音だけが虚しく響く。そろそろお湯がなくなるのかもしれない。渇いた音が混ざっていた。
「…もう、いいの…」
月子ちゃんが腕の中で、小さく零した。ぼくはふるふると首を振った。溢れた涙があたりに飛び散る。触れた月子ちゃんの指先はやっぱり冷たい。
「流石にそんなカンタンに、死んだりしないし、人の体って、案外丈夫なのよ…あなたみたいに死ぬ気もないから、ちょっとくらい死にそうになったって、平気。言ったでしょう、痛みなんて、慣れれば痛くなくなるの…人の体って、そうできてるのよ」
──嘘だ。
もう月子ちゃんの「平気」は信じない。人がどんなに弱くてちっぽけな存在か、ぼくは誰よりもよくそれを知っているから。
再び廊下の向こうから、複数の足音が近づいてくる。さっきより大きい気がするそれは、男子生徒のものだろう。引きずるような、重たい足音。遠巻きながら聞こえてくる声は、女生徒のものとは明らかに違う。
桜塚達だ。
それは今までぼくが描いた中での、最悪の瞬間。体が、心臓が、手が足が、震えだす。もはや条件反射に近いそれは、本能的に植えつけられた恐怖。
「…あなたはここに隠れてて。じっとしてるのよ、いい…? あたしが出て行ったあと、しばらくしてから、ちゃんと誰も居なくなったことを確認して、すぐに学校から出るのよ」
月子ちゃんがまるで子供を諭すような声音でぼくに言う。月子ちゃんが今何を考えてるのかぼくには容易に想像できた。だからぼくはふるふると首を振った。
ぎゅう、と。きつく強くその小さな体を抱き締めた。
「あたしなら、だいじょうぶ。痛くないから、傷つかないから、平気よ」
──うそつき。
今まで、月子ちゃんの言うことはすべて正しく思えてた。凛と生きる彼女だからこそ、月子ちゃんの放つ言葉はまっすぐ揺らぎなく、強かった。
だけど今はちがう。月子ちゃんの言葉に、ぼくはもう簡単に退いたりしない。推し進めることも、できなかったとしても。
「傷つかずに済むのなら、あなたまで傷つく必要なんて、ないのよ」
やっぱり、うそつきだ。月子ちゃんはぼくの分まで、傷つこうとしてるくせに。
足音が近づいてくる。次第に声もはっきりと聞こえるようになり、恐怖が具現化して近づいてきているのを感じる。
涙が自然と溢れた。もうこれがなんの涙だか自分でもわからない。
力の抜けていく体から、ぼくの腕の中から、月子ちゃんが這い出ようとしている。それを止める力も今のぼくにはない。
……神様。せめてぼくに、立ち向かう勇気があったなら…ここからきみを連れ出す、力があったなら。…なにか、変わった…? きみを、救えた…?
「………っ」
こんな、ぼくに。
一瞬の違和感に、お互い同時に顔を上げる。ぶつかる視線。互いの瞳に映る、自分の顔。
「…うそ…」
今度は月子ちゃんの目から、涙が溢れる。もちろん泣いているのは、ぼくだけだ。
「……」
「…う、うう、ぼく、そんなつもりじゃ…」
もう何度目だろう。驚きはしない。ただそれよりもっとはっきり感じるのは情けない気持ち。恥ずかしい気持ち。
ぼくは月子ちゃんに、月子ちゃんはぼくになっていた。




