◇6
「……な、に…してるの」
すぐ傍で聞こえてきた声に、は、っと顔を上げると、うっすらと目を開いた月子ちゃんの視線とぶつかる。ぼくは慌てて自分の涙を拭い、握っていた手を解く。
「あの、ぼく、月子ちゃんが倒れたって、聞いて…!」
「……あたしが…?」
月子ちゃんはまだ事態が呑み込めていないのか、きょろきょろと視線を彷徨わせる。意識が朦朧としているのだろう、焦点が合ってない気がする。
「……ここ…」
「…保健室だよ、学校の」
なぜだかぼくはうしろめたい気持ちから、ぎゅ、と自分の手を握り締める。
月子ちゃんの顔を、まともに見れない。
「どうして、あなたが…」
月子ちゃんが呟いたのとほぼ同時に、保健室の扉の向こうの廊下から、声が聞こえた。複数の人の気配と供に。
「山田、本当に保健室にいんの?」
「らしいよ、ぶっ倒れたって聞いたけど」
授業中のはずなのに、声を潜める様子もなく、大声で近づいてくる。もはやぼくも聞き違えない、それは。
「病人で遊んでもつまんなくない? …恭子」
堀越恭子たちの声。
「…別にビョーキだろうがカンケーないし。あたしが今、むしゃくしゃしてるから、アイツで憂さ晴らしするのよ」
サーと、自分の顔から血の気がひいていくのがわかる。体中から熱が逃げていく。
まるで悪魔がこっちに向かってくるみたいだ。実際それに近い。あっちには悪意しかないのだから。
そろりと月子ちゃんに視線を戻すと、月子ちゃんはいたって無表情のまま。わずかに上がった息と青い顔のままだった。
怯える気力もないのか、それともこの状況は月子ちゃんにとって、それほどまでの状況ではないというのか。ぼくですらこんな、恐怖しているのに。
「つ、月子ちゃん、に、逃げたほうが…」
怯えた声で、ぼくは咄嗟に月子ちゃんの手をとった。月子ちゃんの手はひやりと冷たく、まるで陶器の人形のようだ。その顔色も、表情も。まるで何も、感じていない。
僅かに口が動く。その目はぼくを見ていない。何も、そう何も。
「…どうして。逃げたってムダよ。次会った時に倍以上殴られるだけ。だったら今の内に殴られておいた方が、楽に済む…それに、今ならどんなに殴られたって、平気だから。だから、いいのよ」
どうして、月子ちゃんは。そんな哀しいことを平然と言うのだろう。
「いい、わけ、ないよ…」
「…いいから、あなたこそ逃げなさいよ、彼女達に出くわしたら、いろいろと、厄介でしょ…」
そんなの、わかってる。堀越恭子達が桜塚達と繋がっていて、ぼくにとっては厄介中の厄介人物だってことぐらい。ぼくだって十分、わかってる。そんな、弱っている月子ちゃんに心配されなくたって、わかってるんだ。
だけど、月子ちゃんにとってだって、最悪の相手じゃないか。こんなに、誰の目から見ても弱っている月子ちゃんを目の前にしたって、きっと彼女達の中には容赦とか躊躇とか同情なんて、微塵も存在しないんでしょう?
月子ちゃんだってそんなことぐらい、もう十分わかっているんでしょう?
でも月子ちゃんは抵抗どころか、逃げも隠れもしない。
それは強さなのだと思っていた。月子ちゃんは強いんだと思っていた。ぼくなんかとは、ぜんぜん違うって。
だけど、ちがう。
今のぼくの目に、もう月子ちゃんは強く映ったりなんかしない。
「どうして月子ちゃんは自分から傷つこうとするの…」
もしもそれを、月子ちゃんが望んでいるのだとしたら…月子ちゃんはやっぱり、似ているんだと思った。もうひとりのぼくだと思った。
掴んでいた手に力が篭る。ぼくのこの手の熱が、月子ちゃんの手にはいっこうに移らず、ぼくの手の内だけで虚しく彷徨っている気がする。
月子ちゃんのこの手は、救いの手すらきっととらないのだろう。
それはかつてぼくも抱いていたものだ。あの狭くて暗くて小さな世界でただずっとそれだけを願っていた。
望んでいるのは救いなんかじゃなくて、自らの罪に相応しい罰。赦せないのは誰より自分自身。
ずっと、ずっと。あの日奪ったものに値するくらいの、相応しい罰が欲しかった。
どんなに重たくたって苦しくたって辛くたって、自分で望んだものだから受け入れられる。
ぼくはそれを自らの命で償う代償だと思ってた。どんなに罰を受けたって日向兄さんは戻ってこないから、帰ってこないから。だからせめて兄さんが生きるはずだった時間を、まるごと差し出そうと、そう思っていた。それだけを思いながら生きてきた。
ぼくにはそれくらいしか、差し出せるものがなかったから。
でも月子ちゃんは決して死を望まない。大切な家族が居るから。
だからきっと。生きながらずっと。痛みを負うことで贖い続けるつもりなんだ。
「前に、月子ちゃんはぼくに言った…自分を卑下することしかできない、そんな言葉しか出てこない、ぼくに向かって」
「……な、に…言って…いいから、はやく…」
「“あなた自身が自分をそう思うから、動けないんでしょう”って。今の月子ちゃんも、いっしょだ」
月子ちゃんが望む罰は、一時だけでもきっと、救われた気になるんでしょう? 傷つけられることを望みながら、償っている気に、なるんでしょう。もう居ない相手への、贖罪は。
「“それ”、は…償いにはならないよ…だってそれで救われた気になるのは自分自身だけであって、償うべき人には、何も届かないんだから…! 何も返ってはこないんだから…!! 月子ちゃんだけが、受けるべきだと思っている罰は、ひとりよがりでしかないんだから…!!」
大声を出しすぎて喉が痛い。情けないな、カッコ悪い。だけどやっぱり今更だ。久しぶりだ、こんな声を出したのも、荒げたのも。
怒って、いるのだろうか。自分でもよくわからない。
ただ、哀しい。
「月子ちゃんが、よくても…」
でももうぼくは。自分以外の痛みを知った。そしたらぼくの痛みなんて、くだらないことに気付いたんだ。幼稚で世間知らずで思い上がりで。そしてやっぱり、ひとりよがりの断罪だったんだ。きっと月子ちゃんだって。本当は気付いているんでしょう…?
「ぼくはイヤだよ…!」
月子ちゃんにかかっていた白いシーツごと、ぼくは月子ちゃんの体を抱きかかえた。月子ちゃんは小さくて軽くて、ひ弱なぼくでもカンタンに抱き上げることができた。
軽いけどこの重みが、やっと感じた温もりが、生きている証だ。
堀越恭子達の声は、もうすぐそこまで近づいている。品のない笑い声はそれはそれは楽しそうだ。
彼女達にとっての遊び、ただの暇つぶし。月子ちゃんを、傷つけることが。
だけどそんなの、やっぱりどう考えたっておかしいんだ。
月子ちゃんだって、そう言ってたじゃないか。ぼくに言ったのは、月子ちゃんだ。もっと周りのことを考えろ、って。生きてるうちに、失くさないうちに、もっとちゃんと、大事にしろって。
「ちょ、なに、す…っ」
思わぬ事態に月子ちゃんが腕の中で小さく暴れた。だけど体だけは男のぼくが押さえ込むと、弱っているせいもあってか、すぐに抵抗はなくなった。
窓の鍵はまだ開いている。空きベッドをひとつ挟んですぐそこが窓だ。
外に逃げた方が良いだろうか。でもこの距離じゃ、逃げたこともすぐにバレるだろう。人数的にも追ってこられたら不利な気がする。堀越恭子の影に桜塚の顔がちらついた。こわい、だけど、今は。
視線を辺りに巡らせる。せめてどこか、隠れられそうな場所。さほど広くもなく見通しの良い保健室に、そんな都合の良い場所は見当たらない。焦って息が上がる。月子ちゃんが腕の中からぼくを見上げて口にした。
「いいから、はやく…っ、あなただけでも逃げて…!」
それだけはぜったいに、イヤだ。




