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学校の公式モバイルサイトというのがある。学校の季節行事や試験の日程情報、それからムダに広い校内の見取り図なんかが掲載されている、生徒向けの携帯用サイトだ。
入学時案内と一緒に、URLとパスワードの設定方法が書かれた紙が同封されていた。生徒固有の学生番号とパスワードを設定し、一度だけログインしたことがある。それ以来このサイトを使うのは、2度目。目当ては保健室だった。
入学後、ぼくは昼間まともに学校に来たことは一度もない。呼び出された夜に訪れたことは数度あったけれど、昼間は一度も。今日がほぼ初めてだ。まぁこれもとてもまともとは言えないのだけれど。
ともかくだから、ぼくには校内の地図が全くわからなかった。月子ちゃんが居るという保健室がどこにあるのかも。
このサイトの存在を思い出せたのは、偶然としか言いようがない。ふと思いついたのだ。記憶の片隅から。
「あった、保健室…って、4つもある…!」
ディスプレイに映し出された校内地図を見ながら思わずひとり青ざめる。それでもよく見ると、保健室はそれぞれ校舎ごとに配置されていた。
旧校舎と、主に教室がある2つの棟と、科目用の実習棟それぞれに1つずつ。ムダに広い校内なので1つでは追いつかないのだろう。
旧校舎は覗き、教室から一番近い保健室。きっと多分、月子ちゃんはそこに居る。
行ってどうするってわけでもない。ぼくが行って何かができるわけでもないってこと、そんなの自分がよく解っている。本当はすぐにでも朔夜くんに連絡した方がいいって、頭では解っていた。だけど。
きっと、ぼくが月子ちゃんだったら…家族の人には、連絡してほしくない。…知られたくない。そう、思うから。
だからせめて、それを月子ちゃんに確認するまでは、それを月子ちゃんが望むまでは…ぼくが、傍に居よう。月子ちゃんを迎えに行こう。
そう、思ったんだ。
生徒達が往来する昼休みにはとても出歩けなかった。それだけはやっぱり、どうしても。
ぼくは申し訳ない気持ちを抱えながらも、階段の踊り場で午後の始業のチャイムを聞き届け、立ち上がる。昼休みとは一転、静けさに包まれる校舎内。ここが教室がある校舎とは別の校舎だからというのも、もちろんあるのだろうけれど。
ゆっくりと足音を消しながら階段を下り、鍵のかかっていない扉から外に出る。校舎から出ると、冷たい空気がかじかむ指先に絡みついた。
パーカーのポケットに両手を突っ込んで息を吐く。少しだけメガネのレンズが曇ったけれど、すぐに溶けた。
気温の上昇した昼間の空気はなんとなく柔らかく感じる。それでも目深にフードを被り、マフラーをぐるぐるに巻く。寒いからじゃなくて、だけどある種の防御だ。自分にとっての。
相変わらず騒ぐ心臓を押さえつけながら、携帯電話を取り出し、再度場所を確認。それから走り出した。
ぼくは自分で言うのもなんだけれど、割と慎重派だ。物事はたいてい調べて調べて調べつくしてからとりかかるし、無謀だったり無茶だと感じたものからは早々に手をひく。
それはあの部屋の中で起こる出来事限定だったけれど。
でも月子ちゃんと出会ってから、月子ちゃに、なるようになってから。毎日が、いや、1分1秒でさえ目まぐるしい。本当にあっという間に時が過ぎていく。
考えている暇もないほど、考えている時間も惜しいほど、こんなに必死な気持ちで何かをしたことがあっただろうか。
こんな、行き当たりばったりな、半ばやけにも思える気持ちでぼくが学校内を走っているなんて、一体だれが想像できただろう。
こわいこと、不安なこと、この道の先にはたくさんある。だから散々避けて逃げていた。その道をぼくは今、走っている、こんな自分。
少なくともぼくはできなかった。こんな自分、知らなかった。きっと月子ちゃんの強さが少しだけこの体にうつったのかもしれない。じゃなきゃきっと知れなかった。こんな、自分を。
ぼくには未来なんてないと思ってた。要らないと思ってた。あっちゃいけないと。許されないと。そう誰よりもぼくが思っていた。
じゃあぼくを許すのは誰だろう。ぼくは誰に、許されたいのだろう。なんの為に、誰の為に。
答えはやっぱりまだわからないけれど、それでも今は。きっと何より自分自身の為に、走ってる。
幸いにも目当ての保健室は1階で、窓側から回り込めれば中の様子を覗ける。植え込みの向こうのグラウンドは今の時間は使われていないらしく、見渡す限り人影はない。
良かった、運がいい。流石に授業中に外から保健室を覗く人物なんて不審過ぎる。誰にも見られないにこしたことはない。
ぼくはそろりと、窓から室内を覗き込む。カーテンはひかれておらず、室内の様子が一望できた。
保険医は今居ないようで、室内はガランとしている。視線を彷徨わせると、ひとつだけカーテンのひかれたベッドがあった。
月子ちゃん、だろうか。でも確信が持てない。
少し考えた末、ポケットから携帯を取り出し緊張しながら番号を発信する。わずかばかりの時間差を伴って、ブー、と携帯のバイブ音が室内に響いた。視線の先のベッドの方向から。
「……っ」
月子ちゃんだ。本当にここに、居たんだ。
そう確信した瞬間ぼくは、理由のわからない涙が滲んだ。呆れた顔して「ばかね」っていう月子ちゃんの顔が浮かんで、だけどすぐに流れて消えた。
思わず窓に触れていた手に力が篭ったその瞬間、窓ガラスが横に小さく動き驚いて息を呑む。
「……!」
鍵が、かかっていない。よく見ると隙間が少し空いている。おそらく部屋の中央にあるストーブ用に、換気していたのだろう。ストーブの上に置かれたやかんからは蒸気が噴き出している。
ぼくは焦る気持ちを押さえながら、ゆっくりと窓を開け、人ひとり分の隙間を作る。それから身を乗り出して、室内に侵入した。
外との温度差で、メガネが一瞬にして真っ白に曇った。メガネを外し壁に背を預け様子を伺いながら、服の袖でレンズを拭いかけ直す。それからまたゆっくりと、窓を閉める。
おそらく人は誰も居ないはず。だけどさっきの電話みたいに油断して、こんな不法侵入みたいな場面を見られたらシャレにならない。一応生徒なんだから不法侵入ではないのだけれど、堂々と扉から入らないあたり、気持ちそれに近いのだ。
なるべく気配を消しながら、カーテンのひかれたベッドに近づく。どくどくと心臓が鳴る。
そろりとカーテンの隙間から中を覗くと、ベッドに横たわっている青い顔の女の子が居た。
「……月子、ちゃん…」
思わず小さく零れた口元を慌てて手で覆う。
そっと、カーテンの内側にするりと滑り込む。月子ちゃんはベッドの上で浅い呼吸を繰り返している。目を覚ます気配はない。
真っ白いシーツに月子ちゃんの黒髪が緩く流れて、月子ちゃんの顔色は青白くまるでマネキンみたいに無機質に思えた。
胸が、痛くなった。ぎゅう、って。締め付けられるみたいに。
「……ん…」
月子ちゃんの口から、小さく声が漏れた。ぼくは慌ててベッド際に膝をついて、月子ちゃんの顔を覗き込む。
「月子ちゃん…?」
「……さ…」
苦しいのか、月子ちゃんの表情が歪み、みるみる呼吸が荒くなっていく。こんな月子ちゃんの表情を見るのは、初めてだ。いつだって冷静でクールで無表情に近い月子ちゃんの。よっぽど、辛いんだ。苦しいんだ。
月子ちゃんだって、ただのひとりの人間だ。どんなに強くて平気そうに見えたって、まだたった17歳の、女の子なんだ。
熱があがったのだろうか。何か、冷ますものはないのか。保健医はどうして居ないんだろう。どうして何も、処置してくれた様子がないのだろう。やり場のない怒りと情けなさで視界が歪む。
「…め…な、さ…」
月子ちゃんの眉間に皺がより、額にはうっすらと汗が滲んでいる。零す言葉は小さくて、か細過ぎて上手く聞き取れない。
「苦しいの? 月子ちゃん、だいじょうぶ…? 月子ちゃん…っ」
またすぐ、泣きべそをかく自分。それしかできない自分。情けなくて自分に腹が立つ。
だって目の前で月子ちゃんが、こんなに辛そうで。なのにぼくには、何もできなくて。
ぎゅ、と。反射的にその手を握る。思ったより力強く握り返されて一層胸が苦しくなった。
月子ちゃんの口元がまた小さく動く。
「…と、うさ……ごめ、んなさ… おとうさん……」
それは、小さく、小さく。
月子ちゃんから零れて落ちた。
白いシーツに吸い込まれたその言葉を、その雫を。
すくえもしない、ぼくは。




