◆3
教室では朝のHRが始まっている。担当教諭の声はよく聞こえない。いつもあまり聞いてはいないけれど。
ふと、手元に1枚の紙があった。
何時の間にあったのだろう。全く気がつかなかった。いよいよ本格的に意識がまずいかもしれない。
頭に手をあて溜め息を吐きながら、紙を手にとる。視力が悪い上に現在は焦点まで定まらず、何の紙か全くわからなかった。
ぼやける視界に近づけてやっと、なんとかその紙に書かれた文字を読み取ることができた。
「……進路調査票…」
冬が終わり春がくれば、あたしは3年、世に言う受験生だ。でもあたしは、就職するって決めていた。その為にはせめて、実績が必要だった。学校行事の委員だとか役員だとか社会活動の貢献だとか。
奨学金でこの学校に通わせてもらってはいるけれど、今後試験でまともな点数を残せる保証もない。だからせめて。皆勤ぐらいはしなければ。
「三者面談もありますので、親御さんとよく進路のことを話し合っておくように───」
教室内はにわかにざわついて、予鈴のチャイムと共に教師は教室を後にする。
1限目は移動教室だ。移動しなければ。
頭ではわかっていた。でも。
どうしてだろう立ち上がれなかった。
熱に浮かされた思考が、ぐちゃぐちゃと記憶をかきまわす。思い出さなくていいことまで、忘れていたいことでさえ、勝手に引っ張り出して。落ちる瞼を止められない。
瞼の向こうには、12才のあたしがいた。あの日も確か、冬だった。
『…あたし…、良い学校に行って、たくさん勉強して、医大に行きたい…医者に、なりたいの…っ』
あの日…私立の中学校の受験志願を、両親に打ち明けた。
うちが貧乏なのはわかっていた。さんざん悩んだけれど、諦めきれなかった。一生に一度の、ワガママのつもりだった。
お父さんの病気のことは、家族みんな、知っていた。通院も薬も一生涯で、あたし達も何度か病院に付き添ったことはあったし、毎食後の薬も日常の一部だった。
お父さんは傍から見てとても病気には見えなかったし、教師の仕事は続けていたし、笑っていたし、元気だった。
死ぬだなんてそんなこと、考えられなかった。考えるわけなかった。
だけどそれでも、病院に通い続ける父を見て、笑顔で支え続ける母を見て、顔には出さずとも心配する弟達を見て。力になりたいと、何かしたいと思ったんだ。
お父さんはまっすぐあたしを見つめ、口を開いた。
『…お父さんは正直、反対だよ…月子に医者なんて、なってほしくない…ものすごく、大変な職業だ。そう簡単になれるものじゃない』
『か、簡単になれなくたって、難しくたって、そんなこと…!』
『月子は頭も良いし面倒見だっていい。もっときっと、月子に合った職業がきっとある。 月子には、もっとちゃんと将来が…』
『あたしの将来をあたしが決めちゃいけないの…?! うちが…っ! 貧乏だから…?!』
『月子…!』
叫ぶあたしを、お母さんが止めた。あたしは目の前のお父さんに、生まれて初めて大声を上げた。
お父さんもお母さんも哀しそうな顔をしていた。
あたしは子供で、言いたいことが上手く伝えられなくて。もどかしさだけが声にもならず唇を滑って。
ちがう、こんなこと言いたかったんじゃない。あたしはただ、応援してほしくて──
中学受験の話は、半分はきっかけでしかなかった。本当に一番言いたかったのは、伝えたかったのは、医者になりたいってそれだけで…ただ、それだけで。
──喜んで、ほしかった。ガンバれって、言ってほしかった。
待ってる、って。笑ってほしかっただけだった。
『…あたし──っ』
…12才だった。子供だった。
どうしようもないほど幼稚で、未来のことなんてまだなにも見えていなくて、お父さんの気持ちなんて解ろうともしなくて。ただ望んだものを与えられず駄々をこねていただけの、愚かな子供だった。
お父さんに、最期に投げつけたあの言葉を、取り消せるなら。なかったことにできるなら。どんな罰でも あたしは…
──あたしは。




