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ひとりぼっちの勇者たち  作者: 長月イチカ
ベッドの下の嘘吐き
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25/53

◆2


 ──ああ、しくじった。あたしとしたことが。

 昇降口の下駄箱に手をつきながら、短く息を吐く。

 マスクごしに漏れる息が冬の空気に白く溶けた。熱が上がってる気がする。顔が熱い。

「……ケホ…」

 喉が痛くて枯れた咳しかでない。

 本当にまったく、あたしとしたことが。弟達に、特にまだ幼い瑠名にうつすといけないから、健康面には十分気を配ってきたつもりだったのに。のこのこ風邪をうつされて帰ってくるなんて。

 本当に、調子が狂うことばかりだ。やっぱりさっさと帰れば良かったんだ。


 ごほごほと棘のある咳がマスクの中で暴れる。下駄箱から取り出した上履きが足元に勢いよく転がった。

 熱いのに寒い。奥歯がカチカチと震えだす。体は違うのにどうしてこういう症状は同じなのだろう。やっぱり絶対、割に合わない気がする。

 とにかく今日は、いつも以上に大人しくしていよう。誰もあたしのことなんか気にしないだろうけれど、それでも。いつもと同じように、時が過ぎるのをじっと待とう。あとは堀越恭子だとか、厄介な人に絡まれないことを祈るだけ。


 …そういえば昨日、彼は上手くやってくれたんだろうか。入れ替わった後、教室で。いや、その前に、あの人と。…昴流先輩と。

 あの後どうなったんだろう。あんなタイミングで入れ替わってしまって。昨日会ったときはそれを確認するどころじゃなかったしな。でもそこまで取り乱した様子はなかったし、案外上手くやり過ごしてくれたのかもしれない。

 …いいや。今は考えたって、仕方ない。どうしようもない。どうなったって、変わらない。どうだっていいことに、変わりはないのだから。


 なんとか教室まで辿り着いたものの、体が重い。息があがる。いつもよりはやく家を出てきて正解だった。途中何度か自転車のまま転びそうになったけれど。

 教室内にはまだ人もまばらだった。

 よろよろといつもの席につく。ひとまずはこれで一息つける。少しだけほっとした。

 力を振り絞って重たいカバンを机の脇にかけた、その時。ふと視線を感じた。ほんの一瞬だけ。

 でもその瞬後には、またいつもと変わらない日常の教室に戻っていた。なんだろうとは思ったけれど、あまり気にせず席に着く。

 それから読みかけのカバーのかかった文庫本を取り出して、ぱらりとめくった。正直内容はまったく頭に入ってこない。とりあえずいつものポーズだけ。教室という場所の中で、自分という存在を切り取るための。自分も相手も、一切立ち入らない。関わらない。それがいつもと変わらない、あたしの日常だった。

 だから、すぐ目の前に人が居たことも、その人物があたしを見ていることも、気付かなくて。

「……あ、の…山田、さん…」

 いつもと変わらない日常の、はずだったんだ。


 最初、自分が呼ばれているなんて、気付かなかった。話しかけられているなんて、微塵も思わなかったから。だから返事も反応も、できるわけなくて。

「あの、や、山田さん……っ」

 何度目かにその声が耳に届いた時、やっとそれが自分のことなんだと気付いた。

「…は、い…」

 驚きのままゆるりと顔を上げると、目の前には女の子が居た。どこか怯えた様子で、だけどその目にはしっかりとあたしを映している。

 えーっと、誰だっけ。あまり関与しないものだから、クラスメイトの顔と名前を殆ど認識できていない。 だけど彼女には見覚えがある気がする。そう、確か…

「あの、わたし、星野、です…同じクラスの…」

 そう、星野さん。確か1年の時も同じクラスだった。話したことは殆どないけれど。

「あ、あの、手、大丈夫だった…?」

「え…?」

 手…? 手っていうのは、つまりあたしの手のことだろうか。

 反射的に文庫本を持つ手に視線を落とす。目の前の星野さんもそれを追った。

 右手には少しいびつに巻かれた包帯。朝巻き直した時、やっぱりお兄さんが巻いてくれたようには上手くできなくて、こんな不恰好になってしまったのだ。

 包帯の下の傷は、昨日、おそらく彼がしたケガ。このケガと星野さんと、何か関係あるのだろうか。いや、そんなことは今はもう、どうでもいい。とにかく今大事なのは。

「あの、わたし…っ」

「…ま、待って…!」

 まだ尚何か続けようとした彼女を、思わず右手で制す。文庫本が投げ出され、わずかに腰が浮き、目線が近くなる。ガタガタの包帯が晒されて、なんだか情けなかった。

「あたし、に…話しかけないで…」

 この状況が、おかしいってこと。いつもの日常ではないってこと。それだけは、マズいってこと。

 こんなところを、あいつらに見られたりしたら。彼女まで、巻き込んでしまう。それだけは避けなきゃいけない。これはあたしの、あたしだけの問題なのだから。

 教室の席が少しずつ埋まる。それにあわせてちらちらと、視線が集まってくるのがわかる。

 好奇の目。やっかみの目。不安の目。

 当たり前だ。だってこんなの、いつもと違う。

 日常の中の変化が、ひとは一番こわい。それはあたしも同じだった。

 どくどくと、心臓が鳴る。

「山田さ…」

「お願い、だから…ひとりに、して」

 言葉が上手く出てこない。こんなこと、初めてで。

 マスクのせいで余計に声がくぐもる。

 星野さんは、少し泣きそうな顔をしていた。それは、あたしの所為なのだろうか。

「…紗雪、山田さんもそう言ってるんだから…」

 ふと彼女のすぐ後ろから、男子生徒が現れ星野さんの手を取った。確かこの人もクラスメイトだ。名前はすぐには、思い出せないけれど。

 あたしは僅かにほっとして、浮いていた腰をそのまま下ろす。それから文庫本に向き直った。はやくひとりの日常へと戻らなければと、必死だった。

 彼女は…星野さんはまだ、あたしを見ていた。あたしはもう目を合わせる気はなかった。

「…紗雪」

「…手、おだいじにね…あの、風邪も…」

 星野さんは最後にそう残して、ようやくあたしの目の前から居なくなった。連れ去られるみたいに、腕をひかれながら。

 痛いわけじゃないのに、寒いわけじゃないのに、手が震えて。文庫本は上手が持てなかった。


 ここのところ、あまりにもいろんなことがあり過ぎて、失念していた。急場の対応に追われ慌ただし過ぎて、意識が薄れていた。

 あたし達は、いつまでこのままなんだろう。

 彼には彼の事情や日常があるように、あたしにもあたしの日常がある。それを脅かされるのであれば、戦わなくちゃいけない。守らなければいけない。絶対に。

 あたしはあたしの、一番守りたいものを守る。

 今までだってそうしてきた。これからもそうすればいい。──でも。

 あたしの一番守りたいものって、なんだったっけ…?

 きっと、たくさんあった気がするけれど、どうしてだろう上手く、思い出せない。

 あたしはちゃんと、守れているのだろうか。なくさないで、いられているのだろうか。

 こんな、自分の身すら、ままならないのに。



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