◆2
──ああ、しくじった。あたしとしたことが。
昇降口の下駄箱に手をつきながら、短く息を吐く。
マスクごしに漏れる息が冬の空気に白く溶けた。熱が上がってる気がする。顔が熱い。
「……ケホ…」
喉が痛くて枯れた咳しかでない。
本当にまったく、あたしとしたことが。弟達に、特にまだ幼い瑠名にうつすといけないから、健康面には十分気を配ってきたつもりだったのに。のこのこ風邪をうつされて帰ってくるなんて。
本当に、調子が狂うことばかりだ。やっぱりさっさと帰れば良かったんだ。
ごほごほと棘のある咳がマスクの中で暴れる。下駄箱から取り出した上履きが足元に勢いよく転がった。
熱いのに寒い。奥歯がカチカチと震えだす。体は違うのにどうしてこういう症状は同じなのだろう。やっぱり絶対、割に合わない気がする。
とにかく今日は、いつも以上に大人しくしていよう。誰もあたしのことなんか気にしないだろうけれど、それでも。いつもと同じように、時が過ぎるのをじっと待とう。あとは堀越恭子だとか、厄介な人に絡まれないことを祈るだけ。
…そういえば昨日、彼は上手くやってくれたんだろうか。入れ替わった後、教室で。いや、その前に、あの人と。…昴流先輩と。
あの後どうなったんだろう。あんなタイミングで入れ替わってしまって。昨日会ったときはそれを確認するどころじゃなかったしな。でもそこまで取り乱した様子はなかったし、案外上手くやり過ごしてくれたのかもしれない。
…いいや。今は考えたって、仕方ない。どうしようもない。どうなったって、変わらない。どうだっていいことに、変わりはないのだから。
なんとか教室まで辿り着いたものの、体が重い。息があがる。いつもよりはやく家を出てきて正解だった。途中何度か自転車のまま転びそうになったけれど。
教室内にはまだ人もまばらだった。
よろよろといつもの席につく。ひとまずはこれで一息つける。少しだけほっとした。
力を振り絞って重たいカバンを机の脇にかけた、その時。ふと視線を感じた。ほんの一瞬だけ。
でもその瞬後には、またいつもと変わらない日常の教室に戻っていた。なんだろうとは思ったけれど、あまり気にせず席に着く。
それから読みかけのカバーのかかった文庫本を取り出して、ぱらりとめくった。正直内容はまったく頭に入ってこない。とりあえずいつものポーズだけ。教室という場所の中で、自分という存在を切り取るための。自分も相手も、一切立ち入らない。関わらない。それがいつもと変わらない、あたしの日常だった。
だから、すぐ目の前に人が居たことも、その人物があたしを見ていることも、気付かなくて。
「……あ、の…山田、さん…」
いつもと変わらない日常の、はずだったんだ。
最初、自分が呼ばれているなんて、気付かなかった。話しかけられているなんて、微塵も思わなかったから。だから返事も反応も、できるわけなくて。
「あの、や、山田さん……っ」
何度目かにその声が耳に届いた時、やっとそれが自分のことなんだと気付いた。
「…は、い…」
驚きのままゆるりと顔を上げると、目の前には女の子が居た。どこか怯えた様子で、だけどその目にはしっかりとあたしを映している。
えーっと、誰だっけ。あまり関与しないものだから、クラスメイトの顔と名前を殆ど認識できていない。 だけど彼女には見覚えがある気がする。そう、確か…
「あの、わたし、星野、です…同じクラスの…」
そう、星野さん。確か1年の時も同じクラスだった。話したことは殆どないけれど。
「あ、あの、手、大丈夫だった…?」
「え…?」
手…? 手っていうのは、つまりあたしの手のことだろうか。
反射的に文庫本を持つ手に視線を落とす。目の前の星野さんもそれを追った。
右手には少しいびつに巻かれた包帯。朝巻き直した時、やっぱりお兄さんが巻いてくれたようには上手くできなくて、こんな不恰好になってしまったのだ。
包帯の下の傷は、昨日、おそらく彼がしたケガ。このケガと星野さんと、何か関係あるのだろうか。いや、そんなことは今はもう、どうでもいい。とにかく今大事なのは。
「あの、わたし…っ」
「…ま、待って…!」
まだ尚何か続けようとした彼女を、思わず右手で制す。文庫本が投げ出され、わずかに腰が浮き、目線が近くなる。ガタガタの包帯が晒されて、なんだか情けなかった。
「あたし、に…話しかけないで…」
この状況が、おかしいってこと。いつもの日常ではないってこと。それだけは、マズいってこと。
こんなところを、あいつらに見られたりしたら。彼女まで、巻き込んでしまう。それだけは避けなきゃいけない。これはあたしの、あたしだけの問題なのだから。
教室の席が少しずつ埋まる。それにあわせてちらちらと、視線が集まってくるのがわかる。
好奇の目。やっかみの目。不安の目。
当たり前だ。だってこんなの、いつもと違う。
日常の中の変化が、ひとは一番こわい。それはあたしも同じだった。
どくどくと、心臓が鳴る。
「山田さ…」
「お願い、だから…ひとりに、して」
言葉が上手く出てこない。こんなこと、初めてで。
マスクのせいで余計に声がくぐもる。
星野さんは、少し泣きそうな顔をしていた。それは、あたしの所為なのだろうか。
「…紗雪、山田さんもそう言ってるんだから…」
ふと彼女のすぐ後ろから、男子生徒が現れ星野さんの手を取った。確かこの人もクラスメイトだ。名前はすぐには、思い出せないけれど。
あたしは僅かにほっとして、浮いていた腰をそのまま下ろす。それから文庫本に向き直った。はやくひとりの日常へと戻らなければと、必死だった。
彼女は…星野さんはまだ、あたしを見ていた。あたしはもう目を合わせる気はなかった。
「…紗雪」
「…手、おだいじにね…あの、風邪も…」
星野さんは最後にそう残して、ようやくあたしの目の前から居なくなった。連れ去られるみたいに、腕をひかれながら。
痛いわけじゃないのに、寒いわけじゃないのに、手が震えて。文庫本は上手が持てなかった。
ここのところ、あまりにもいろんなことがあり過ぎて、失念していた。急場の対応に追われ慌ただし過ぎて、意識が薄れていた。
あたし達は、いつまでこのままなんだろう。
彼には彼の事情や日常があるように、あたしにもあたしの日常がある。それを脅かされるのであれば、戦わなくちゃいけない。守らなければいけない。絶対に。
あたしはあたしの、一番守りたいものを守る。
今までだってそうしてきた。これからもそうすればいい。──でも。
あたしの一番守りたいものって、なんだったっけ…?
きっと、たくさんあった気がするけれど、どうしてだろう上手く、思い出せない。
あたしはちゃんと、守れているのだろうか。なくさないで、いられているのだろうか。
こんな、自分の身すら、ままならないのに。




