◆8
部屋のドアをゆっくと開け中に入る。眠っている彼を起こさないように気をつけながら。
もう夕方を過ぎた冬の空は暗く、室内も真っ暗だった。
そろりと屈み、自分のカバンを手探りで探す。床についた膝の痛みに思わず顔をしかめた。
「……月子ちゃん…?」
か細い声が、ベッドから聞こえた。
体を起こし視線を向けると、彼が上半身だけ起こしているシルエットがぼんやり見える。
「…まだ寝てなさいよ」
「…うん…」
寝ぼけているのか薬が効いているのか、いつも以上に反応が鈍い気がする。面倒くさいからまともに相手しないことにして、作業を再開した。
一刻もはやくこの部屋から出て帰りたかった。
「ぼく、どれくらい寝てた…?」
「…1時間くらいかしら。」
「月子ちゃん、ずっと、居てくれたの…?」
「…まさか」
結果的にはずっと居たのだけれど、別に彼についていたとか心配して残っていたとかそういうわけでは決してない。それしか選択肢が無かったのだ。仕方なかった。別にそこまでむきになることでもないのだけれど。
「…あつい…」
力ない彼の呟きに、思わず顔を上げる。
熱が上がったのだろうか。薬が思ったより効いてないのかな…ちゃんと汗はかいているだろうか。暗くて彼の様子はよくわからないけれど。
ガサリと、左手に何かあたった。暗闇に慣れてきた目で確認すると、コンビニの袋だった。
袋の中には水とポカリと冷却シート、それから薬が入っていて、彼がここに来る時に買ってきたものだとすぐわかった。コンビニの袋のすぐ近くには、あたしのカバンも一緒にあった。
「なんでもっとはやく出さないのよ…」
気付かなかったあたしもあたしだ。思わず唇を噛み締めて、袋の中から冷却シートの箱を取り出しながらベッドに近づく。本当は冷蔵庫で冷やしておくべきだったのだけれど、今更だ。
箱の中から1枚取り出して、ビニールを剥がす。
「月子ちゃん…?」
「おでこ、出して」
あたしの言葉に、素直に長い前髪をのろのろとかきあげる。おでこの真ん中にペタリと冷却シートを貼った。触れた彼のおでこも手も、ひどく熱かった。
「つめたくてきもちいい…」
「…そう、良かったわね」
素っ気無く言った言葉に彼はふにゃりと笑った。部屋は相変わらず薄暗かったけれど、これぐらいの至近距離なら表情までわかる。
いつまでも動こうとしないあたしを不思議そうに見る彼と、目が合った。
「…死にたいの?」
あたしは一体どんな顔をしていただろう。
痛くないと思っていた右手の傷が少しだけ痛んだ。
彼のブロンドの髪は、人工的のものとは違って暗い部屋でもキラキラしていた。
それともカーテンの隙間から覗く月明かりのせいだろうか。初めて日の光の下で見た時のことを思い出す。太陽の下よりも月の下のほうが、ずっと綺麗だと思った。ただの錯覚かも、しれないけれど。
あたしの問いに彼は暗闇の中でわずかに目を丸くした後、やっぱり笑った。
「……どうして…?」
「…お兄さんが」
「ぼくなんか死んだ方いいって?」
彼から出てきた言葉に思わずむかっときた。
なんで、そうなるのよ。そんなこと言ってないじゃない。
「わかってる…ぼくなんか死んだ方がいいってことくらい、ぼくが一番よく、わかってるよ…!」
「…ちょっと」
ゆっくりとあたしから、視線を逸らす。ふとんを握っていた彼の手が、ぎゅう、と自分の右手首を掴むのを、視界の端で見つめた。
彼の顔色が明らかに変わったのがわかった。
「生きてる意味も、価値も、理由もない…! ひとの人生をめちゃくちゃにしておいて…ぼくだけのうのうと生きてるなんて、そんなこと許されるはずが、ないんだ…!」
まるで懺悔みたいだと思った。彼の神様は、きっと彼を救ってくれはしない。
「ぼくなんか…っ、死んだほうがいいに、決まってる…! みんなだって、…う、…そう思ってる…!!」
言いながらごほごほと咳き込む背中をさすってやる。
熱があるくせに、興奮するから。興奮させたのはあたしなんだけれど。
嗚咽が混じり呼吸すら上手くできていない。溺れるみたいに喘ぐみたいに、ただ吐き出している。
自ら吐いた棘をまた自分で呑み込んでるみたいだと思った。それはだれの棘だろう。毒だろう。
彼はもう笑っていない。
いつからか、きっと、ずっと。
「どうして、月子ちゃんは、平気なの…! あんなことされて、傷つけられて、死ねって言われて…! ぼくは、本当に、死んでしまいたくなる…死ねって言われる度、死にたいって思う…でも自分じゃ上手く、死ねないんだ…ぼくがこんなに、臆病で弱虫だから…! だけど、死ねって言葉は、本当にひとを殺せる…少なくともぼくを殺せる。だってこんなに、痛くて、辛くて、苦しくて…! きっとみんなが死ねって言ったらぼくは」
「じゃあ死なないわよ」
彼のぼたぼたと零す涙が、ベッド脇についていたあたしの手をも濡らしていた。右手に巻かれた包帯に、彼の涙が染み渡る。
「あたしは言わないもの」
右手はもう痛くなかった。
「あなたはただ泣いているだけじゃない。こんな小さな部屋に閉じこもって、しがみついて、泣きじゃくって。自惚れるんじゃないわよ、みんなって誰よ」
「……つきこ、ちゃ…」
「少なくともあなたがそうやって投げ出そうとする命を、守ろうとしているひとが居る。あなたが自分のことしか考えていない間に、自分のことよりもあなたのことを考えているひとが居る。あなたが何度死のうとしたってきっと、そのひとがあなたを死なせたりなんかしない。絶対に」
──約束。ごはんだけは必ず家族と食べること。毎日、声をかけて、呼びにくるひとがいる。
兄の名前を呼ぶ目隠しの母親の前で、本当の名前を呼び続けてるひとがいる。
「考えなさいよ、死ぬことよりもっと大事なこと。生きてるうちに、失くさないうちに、もっとちゃんと、大事にしなさいよ…!」
こんな感情的になったのは、どれくらいぶりだろう。いつ以来だろう。
あたしは感情表現や表情が豊かではない。昔からそうだった。だから自分でも不思議でならない。こんな自分。
つられたんだ、きっと。時々彼がこの体を使うから。体の何かがかわったのかもしれない。前のあたしだったら、こんな風にはきっとならなかった。
彼のことなんて、どうでもよかったのに。こんなこと言うつもりは、微塵もなかったのに。
でももう止まらなかった。
この人の言動が、所詮ひとりよがりだとわかったから。気づいたから。心の底から、ムカついたから。
「あなたが死んでもなんにも思わないひとは、この世界にきっとたくさん居る。だけど」
立ち上がって拳を握る。右手は痛くない。もう痛まない。
晒されるだけだった傷口に、包帯を巻いてくれたから。
「あなたが死ぬと哀しむひとも居る。ひとりかふたりか、たったそれだけだとしても、居るのよ確かに。ここじゃなくて、こんな暗い端っこじゃなくて、もっと広いあなたの知らない世界に」
そこはきっと、あたしも知らないまだ見ぬ世界だろう。
あたしは知らないままでもいい。だけど、この人には。
弱くて泣き虫で臆病で生きるのが下手なこの人には。
きっと必要な世界だと思った。




